室町時代戦国時代日本の歴史

輝かしい将来を約束されたはずの宇喜多秀家が遠い離島で最期を迎えたわけ

今回ご紹介する宇喜多秀家(うきたひでいえ)という戦国武将は、眉目秀麗・高身長・高い石高(こくだか)を持つハイスペックな武将で、天下人・豊臣秀吉に愛され、天下の重鎮となる輝かしい将来が約束されていたはずでした。しかし、彼の運命は天下分け目の合戦の後に一変します。愛する妻と引き離され、栄光と転落を人一倍味わうこととなった宇喜多秀家という武将の生き様をお伝えしたいと思います。

幼い当主としての船出だったが、前途洋洋

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謀略の人と恐れられた宇喜多直家(うきたなおいえ)を父に持った宇喜多秀家。しかしその父を幼い頃に亡くし、家督を継ぐこととなりました。幼い秀家は家臣たちに盛り立てられ、やがて天下人・豊臣秀吉からも気に入られ、寵愛を受けるようになります。数々の戦に参加して功績を挙げる彼の前には、出世という道が大きくひらけていたのでした。

父を幼くして失い、10歳で家督を継ぐ

元亀3(1572)年、秀家は備前(びぜん/岡山県東南部)の戦国武将・宇喜多直家の息子として誕生しました。

父・直家は謀略や暗殺で次々とライバルを蹴落として地位を築き、敵から恐れられた人物です。そんな直家ですが、晩年は病に苦しみ、幼い息子を残して逝くことを本当に心配しつつ、天正9(1581)年にこの世を去ります。

そして、まだ10歳の秀家は家督を継ぐこととなりました。とは言っても子供の彼に多くのことができるわけではなく、直家から引き継がれた家臣たちが彼のサポートに必死で当たることになったのです。

叔父や重臣のサポートで家を保つ

この頃の宇喜多氏は、父・直家が毛利氏から織田信長へと従う先を変えており、宇喜多軍は信長の家臣である豊臣秀吉(当時はまだ羽柴秀吉)の軍勢に組み込まれ、毛利氏の中国征伐に参加していました。もちろん、幼い秀家が采配を振るうことができるはずもないので、代わりに叔父の宇喜多忠家(うきたただいえ)が出兵し、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう/岡山県岡山市)攻めに参加しました。また、国に残っている秀家のサポートには、「宇喜多三老(うきたさんろう)」と呼ばれる重臣たちが当たったのです。

父・直家は、敵に対しては残酷な仕打ちをすることがたびたびありましたが、家臣のことは非常に大切にしたため、家に忠誠を誓う家臣が多かったことは、秀家にとっては幸いでだったわけですね。

秀吉からの期待を受ける

秀吉による中国攻めの最中だった天正10(1582)年、本能寺の変が起きて織田信長が明智光秀に討たれてしまいました。秀吉はすぐさま兵を返して光秀を討ち、これによって信長以後の勢力図は秀吉有利に傾くこととなりました。

秀吉は、宇喜多直家との良好な関係から、秀家にも目をかけていたようです(秀家の美貌の母を側室に迎えたからという説もあり)。加えて、秀家のいる岡山城は、中国地方の毛利氏と秀吉の拠点となる畿内(きない/近畿地方中央部付近)との間に位置したため、秀家は毛利の監視役として秀吉に期待されていたのでした。

秀吉に目をかけられているという時点で、将来はほぼ安泰と言っていいようなもの。少年当主・秀家の未来は前途洋洋でした。

豊臣一門に迎えられ、若き貴公子として出世の道を歩む

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By 不明[1], パブリック・ドメイン, Link

秀吉に気に入られた秀家は、秀吉の猶子(ゆうし/相続関係のない養子)となり、秀吉の親友・前田利家(まえだとしいえ)の娘を妻に迎えます。これで名実共に秀吉ファミリーとなった秀家は、秀吉の天下取りのための数々の合戦に参加し、キャリアを積み上げていきました。たくましく、眉目秀麗な若者に成長した秀家は、輝かしい出世街道を着々と歩んでいったのです。

 

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