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昭和維新とも言われる「二・二六事件」とは?日本国内の内戦の始まり?

陸軍の皇道派の将校たちが行ったクーデターであった二・二六事件。鎮圧されなければ昭和維新とも言われるほどの国内の政治社会が根底から覆されかねないほどの、要人襲撃事件でした。実はこのクーデータには陸軍皇道派、統制派それぞれに対して、背後から資金を提供する存在があったのです。クーデーターを通して背後の存在の覇権争いが始まり内戦が勃発するところだったかもしれない二・二六事件について詳しく解説します。

学校で教えられる二・二六事件とは

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ニ・ニ六事件は1936年(昭和11年)2月26日に、日本国内改革をするべく大日本帝国陸軍の青年将校22名が起こしたクーデターです。経済的に困窮した日本の現状を憂い、下士官・兵およそ1400名を率いて大蔵大臣高橋是清や内大臣斎藤実、教育総監渡辺錠太郎を殺害、侍従長鈴木貫太郎に重傷を追わせ、東京の永田町一帯を占拠しました。翌日の27日には東京市に戒厳令がしかれ、29日には鎮圧されました。反乱を起こしたのは当時陸軍内にあった皇道派と統制派の2つの派閥のうち、皇道派の青年将校であり、反乱後は軍法会議でほとんどの青年将校は銃殺刑に処せられました。事件後は陸軍内は統制派による内部統制が厳しくなり、その後の内閣に対する閣僚人事の介入や政治的発言力が強まりました。

陸軍内の二つの派閥、皇道派と統制派の戦い

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元々は陸軍の中に二つの派閥はなく、皇道派が生まれたことがきっかけとなり、皇道派以外の人たちを暫定的に統制派として区別するようになりました。皇道派は中国とは協調する方向で、むしろソ連の驚異に備えるべく日本の国力をもっと充実させる方針を抱いていました。統制派の方は南方の資源の活路を切り開くべく、中国を戦略目標に置き、中国を背後に支援する英米に対して対峙することもいとわない姿勢をとっていました。日頃から皇道派は統制派に対して、天皇の慈愛による政策が、政権の上層部によって捻じ曲げられているとして、不満をもっていたのです。

皇道派こそ誠の愛国心を持っていたとする見方も出てきた

今までニ・ニ六事件は陸軍の青年将校によるクーデターとして教えられるにとどまり、青年将校たちの決起に至る経緯などは深く掘り下げられていないのが現状です。そのため陸軍皇道派は血気盛んな青年将校といったイメージが植え付けられただけにすぎません。その後、ニ・ニ六事件当時を知っている人たちの証言などにより、皇道派青年将校が無闇にクーデータを起こしたのではないという見方が出てきました。そして皇道派の青年将校たちこそ被害者であり、皇道派を弾圧した統制派が実権を握ったからこそ日本は日中戦争に突入し、最後には敗戦を招いたとする説も少なくありません。

皇道派である青年将校たちの決起の背景にあるもの

皇道派の青年将校はどちらかというと、貧しい農村出身が大多数でした。そして将校たちの中には、自らの給金の中から家族へ送金している将校もおりました。休暇には実家で田畑での作業を手伝ったりもしていたのです。周囲が経済的に苦しんでいる一方で、陸軍上層部が政治家や財閥との癒着により散財している姿を青年将校たちは目の当たりにしていました。そのうち長引く経済恐慌や地震などの災害に加えて凶作によって、農家の中から娘の身売りが出始めました。身売りの対象となった娘の多くが青年将校にとっては、姉妹、幼馴染などの青年将校たちが愛する人たちであり、愛する人たちが身売りされる事態が皇道派の青年将校を突き動かしたのです。彼らにはもはや力づくで政治を変えるしか手立てはありませんでした。

青年将校の決起はそそのかされたものであった

皇道派の青年将校の不満が限界点にまで達したことは、統制派から送られていたスパイを通じて全て統制派に筒抜けだったのです。そのため統制派はその都度そそのかすための対策を練っていました。しかし皇道派は最初から武力に訴えることを考えたのではありません。天皇の慈愛を信じ切っており、いつかは天皇自ら裁断され、この国内の窮地を打開してくれることを待ち続けていたのです。そこで統制派は青年将校たちに決起を促すべく、北一輝などの思想家を通して青年将校たちを教唆するようになりました。

そのうち皇道派の青年将校たちに、僅かながら資金が流れてきたのです。当然その資金の一部は、日頃から少ない給金の一部を実家に送っているほどに経済的に苦しい青年将校たちの実家に救いを与えます。ある将校は、流れてきた資金で身売りされた身内を買い戻したほどです。資金が少ないながらも流れ続けることで、決起することは人々を救うためのものであるといったレベルにまで青年将校たちの決意を固めるまでになりました。青年将校たちは、襲撃する計画を立てるに至りましたが、襲撃後の新しいものをどうするかの展望はありませんでした。すなわちクーデターそのものを起こすということにとどまっていたのです。

鎮圧するために計算された様々な計略がすでにあった

皇道派の青年将校たちが決起した情報をすでに陸軍統制派は的確に掴んでいました。そしてこのクーデターを統制派が実権を握るチャンスとして逃さなかったのです。この時点で陸軍統制派は、バックの支援組織を通じて日本海軍の艦隊派とつながっていました。皇道派青年将校たちを先導する思想家を通じて、まず青年将校たちの襲撃対象を全て軍縮に理解のある海軍条約派の海軍大将にすることで、海軍艦隊派が鎮圧に入るように仕組まれたのです。その結果第1艦隊が東京湾に結集し、戦艦長門などが陸上の反乱軍に対して砲撃する準備まで行われたほどでした。

ちなみにこの時の戦艦は、東京湾から砲撃した場合、国会議事堂まで命中する射程距離を誇っていたのです。海軍だけでなく、宮中にも策は練られました。襲撃対象を侍従長にすることで、昭和天皇が激怒し、「天皇のため、天皇の周囲の奸物を成敗する」という皇道派青年将校の大義名分が失墜するように仕組まれたのです。

皇道派、統制派の背景には2大勢力の存在があった

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表向きは、皇道派が世の中の理不尽な状態に腹をすねかえて決起しクーデターを起こして、陸軍内の統制派が鎮圧した形ですが、実は皇道派、統制派それぞれに支援する勢力があったのです。統制派にはコミンテルンといった国際共産主義がバックとして資金を提供し、皇道派には国際金融資本がバックについて資金援助していました。その結果、統制派は南方の資源を求めて、中国進出し、中国支援の英米を敵として戦うことになったのです。一方皇道派は、中国とは支援関係に入り、国力を充実させた上で北進することでソ連と戦う構想を持っていました。

コミンテルンは統制派を支援することで、中国及びそのバックにある英米と戦火を交えさせ、国力を削減させたところへ、共産主義への革命を試みるというものでした。それとは反対に国際金融資本では、日本に中国と協調する立場を取らせることで、英米と対峙することは避けさせ、その上で日本を差別的に英米の下に置きながらソ連を牽制するというものでした。

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