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名門貴族に生まれ国民的人気を博した政治家「近衛文麿」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

日本屈指の名門貴族の家に生まれた近衛文麿(このえふみまろ)は近代史のキーパーソンの一人です。貴族院議員を経て貴族院議長を務めた近衛は政界や国民の期待を担って組閣しました。しかし、近衛は軍の行動をコントロールすることができず、日中戦争に突入。ヒトラーやムッソリーニをモデルとした新体制運動を起こし、大政翼賛会の総裁となります。太平洋戦争の直前にはアメリカとの対立を避けるため、対米交渉の妥結を図りますが失敗。最終的に総辞職せざるを得なくなりました。今回は、近衛文麿の生涯について元予備校講師がわかりやすく解説します。

期待を一身に受けた政界のプリンス

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文麿は日本の貴族の中でも名門中の名門である近衛家に生まれました。近衛家は摂関政治を行った藤原氏の子孫であり、さかのぼれば皇族にもつながる家柄です。大正時代に活躍した政治家の西園寺公望の引き立てもあり、政界の若きプリンスとして期待を一身に背負いました。

文麿が生まれた近衛家と父の近衛篤麿

鎌倉時代、摂政・関白を輩出していた藤原氏は5つの家系に分かれました。藤原基実の子孫である近衛家鷹司家、藤原(九条)兼実の子孫である九条家二条家一条家です。この五つの家柄を摂政・関白に任じられる家という意味で五摂家といいました。

江戸時代前期に跡継ぎがいなくなり、断絶しそうになります。この時、後陽成天皇と近衛前子との子である近衛信尋が近衛家を相続。断絶の危機を免れました。

天皇の子である近衛信尋が近衛家を継いだことで、近衛家に皇室の血が入ります。そのため、近衛家は皇別摂家として以前にもまして権威がつきました。

明治維新後、近衛家の当主となった近衛篤麿はドイツやフランスに留学。学習院院長となって華族教育に力を注ぎます。

篤麿は貴族こそが率先して重い負担を担うべきとする西洋のノブレス・オブリージュを強く意識する開明的な人物でした。また、外交面では日本はアジアの国々と連帯するべきだと考えます。

近衛文麿の生い立ちと青年時代

近衛文麿は1891年に近衛篤麿の長男として東京で生まれました。1904年、父の篤麿が41歳で急死したため、近衛はわずか12歳で名門近衛家の当主となります。

小学校卒業後、近衛は当時の華族の一般的な教育施設である学習院の中等科に進学しました。普通であれば、学習院中等科卒業後、エスカレーター式で高等科に進学します。しかし、近衛は一高に進学しました。一高校長の新渡戸稲造に感化されたためといわれます。

高校時代、近衛は哲学に没頭。高校卒業後は東京帝国大学哲学科に進学しました。また、マルクス主義経済学にも興味を持ち、経済学者の河上肇などの指導を受けるため京都帝国大学に転入します。

京都ではのちに宮中革新派と呼ばれるようになる木戸幸一らと親交を結びました。首相引退後の西園寺公望と面識を持ったのもこのころです。

政界や国民の期待を担った近衛

近衛家は戦前の爵位では最高位にあたる公爵の家柄です。そのため、近衛家の当主は25歳になると無条件で貴族院議員となることができました。1919年、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議に日本使節団の一員として出席します。

1927年、近衛は木戸幸一や徳川家達らとともに貴族院の院内会派「火曜会」を結成しました。それまで属していた研究会が旧態依然としていたのを嫌ったといいます。

五・一五事件満州事変などで日本が激動していた1930年代、近衛は貴族院議長となりました。当時の貴族院は選挙で選ばれる衆議院と対等な立場だったことを考えると、貴族院議長は名誉職ではなく、重要な役職です。

近衛は要職を歴任する重要人物となっていきました。1934年、近衛は訪米しアメリカ大統領のフランクリン=ローズヴェルト国務長官のコーデル=ハルと会談します。

第一次近衛内閣

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二・二六事件により、陸軍統制派の政治に対する影響力が強まる中、広田内閣が総辞職。政界や国民の期待を担って第一次近衛内閣が発足しました。近衛は陸軍がすすめる大陸進出に引きずられるように日中戦争に突入。三度の近衛声明を発して戦争の早期終結を図りますが失敗します。八方塞となった近衛は総辞職しました。

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