幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

維新三傑の一人「西郷隆盛」を元予備校講師がわかりやすく解説

斉彬の死と自殺未遂

1858年5月、譜代大名の筆頭だった彦根藩主井伊直弼が大老に就任すると、反対派を次々と弾圧します。いわゆる安政の大獄です。

同志である藩主や幕臣が次々と弾圧される中、斉彬は鹿児島城下で大規模な軍事演習を行います。一説には、そのまま上洛しようとしていたとも言われますね。

軍事演習から1週間後、斉彬は突如体調を崩しあっけなくこの世を去ります。このころ、京都で斉彬の死を聞いた隆盛は斉彬に殉死しようとしました。しかし、同志の月照にとめられ殉死を思いとどまります。

その後、幕府による弾圧と探索が厳しくなってきたため、西郷と月照は鹿児島に脱出しました。ところが、幕府の役人は執拗に隆盛と月照の行方を追います。かくまいきれないと判断した薩摩藩は月照の追放と殺害を謀りました。

これを知った西郷は錦江湾で月照とともに入水自殺を図ります。月照はなくなりますが、西郷は生き残りました。薩摩藩は西郷も死んだことにして奄美大島に潜居させます。

薩摩藩を動かす大物に成長

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上洛し幕末の政局を動かそうとした島津久光にとって、京都事情に通じた西郷は必要な人物でした。しかし、西郷は久光に「地ごろ(田舎者)」なので難しいと歯に絹を着せずに批判したため、久光の不興を買います。それだけではなく、久光の待機命令に背いて勝手に行動したことで久光の怒りを買った西郷は沖永良部島に遠島とされました。大久保ら久光の側近たちのとりなしで現場復帰を果たした西郷は、薩摩の中心人物として活躍します。

島津久光の上洛

斉彬の死後、斉彬の弟である島津久光の子の茂久が薩摩藩主となると、久光は国父として薩摩藩の実権を握りました。1862年、久光は幕府に幕政改革を要求するため兵を率いて上洛。勅旨を伴って江戸に下向しました。

その少し前、久光は京都で各勢力接触するパイプ役を探します。浮かび上がってきたのが自殺未遂で奄美大島に潜居していた西郷でした。久光は西郷を鹿児島に呼び戻し面会します。

ところが、このとき西郷は久光に「あなたは、地ごろ(田舎者)」だから京都での工作は無理だと言い放ちました。これにより、西郷は久光の不興を買います。それでも、久光の上洛の一行には選ばれ下関で待機するよう命じられました。

ところが、西郷は京都での不穏な動きを聞き待機命令を破って勝手に上洛してしまいます。しかも、西郷が京都で過激派を扇動しているとの知らせが久光に入るに及び、西郷は更迭されてしまいました。

久光の怒りを買って遠島

久光は西郷の言動や待機命令を無視して行動したことを重大視し、遠島処分とします。最初は重臣たちの配慮で鹿児島に近い徳之島に遠島とされました。しかし、久光は重臣たちの措置は手ぬるいとしてより遠い沖永良部島への遠島とします。

沖永良部島では西郷は雨ざらしの牢に入れられました。風雨にさらされた西郷は、一時体調を崩します。見かねた島の下級役人の土持政照が代官の許可を得たうえで自費で座敷牢をつくりました。

西郷は沖永良部島に流されていた時、地元の子供たちに学問を教えます。西郷の教え子は20人近くになりました。

遠島中も、西郷は薩摩本国や中央の動向を知ろうと旧知の桂久武らとの情報交換をおこないます。やがて、薩摩本土から西郷赦免の知らせが届き、西郷の沖永良部遠島は終わりを告げました。

西郷の復帰

西郷を退けたのち、朝廷と幕府が協力して政治をおこなう公武合体運動を目指す久光は朝廷の勅使とともに江戸にのぼります。江戸に到着した久光は幕府に改革を要求。幕府がこれを受け入れ、文久の改革が行われました。

しかし、久光が意図した公武合体は久光ら雄藩側と幕府を代表する一橋慶喜の間で対立が発生。思うように進捗しなくなりました。

久光には京・大阪方面で政治工作を行い、薩摩藩に有利な状況を作り出す必要が生じます。側近の大久保一蔵や小松帯刀らは、京・大坂方面の事情に通じた西郷を復帰させるよう久光に助言しました。

これをうけ、久光はしぶしぶ西郷を赦免。沖永良部島から呼び戻します。薩摩に呼び戻された西郷は京都に派遣され、薩摩軍の軍司令官に任じられました。

討幕に向けての活動

1863年、八月十八日の政変で長州藩および長州派の公家が京都から追放されました。翌年、長州藩は失地を回復するべく京都に出兵します。

西郷は幕府からの出兵要請を断り、皇居護衛に専念して中立を保とうとしました。しかし、長州軍が皇居の門の一つである蛤御門に攻撃を仕掛けたことから、薩摩軍もこれに応戦します。禁門の変で薩摩藩や会津藩に敗れた長州藩は薩摩藩に対してつよい恨みを持つようになりました

1866年、薩摩藩と長州藩の対立を解消し、反幕府勢力をまとめようとしていた土佐浪士の坂本龍馬は西郷と長州藩の実力者桂小五郎を会談させます。この会談で西郷・桂はこれまでの恨みを捨てて同盟を結ぶことに同意。薩長同盟が成立します。

第二次長州征討に失敗し、力が衰えた幕府に対し薩摩藩と長州藩は朝廷に工作して討幕の密勅を得ることに成功しました。しかし、15代将軍に就任した徳川慶喜は大政奉還をおこない、討幕の密勅を無効化します。

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