日本の歴史江戸時代

日本の太平の眠りを覚まさせた「ペリー」を元予備校講師がわかりやすく解説

「太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」。ペリー提督が浦賀に来航した時の混乱ぶりを表現した川柳です。19世紀中ごろから後半にかけては、ヨーロッパ諸国の植民地獲得競争が東アジアにも及びつつあった時代でした。今回は、ペリーのプロフィールを紹介しつつ、ペリーが訪れた時代の東アジア情勢やペリーをめぐる日本側の対応、日米和親条約などについてまとめます。

来日前のペリー

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アメリカ北東部のロードアイランド州に生まれたペリーは若干14歳にして海軍の士官候補生となりました。ペリーの兄も海軍の軍人で米英戦争中のエリー湖の戦いで勝利した英雄です。また、1833年にはブルックリン海軍工廠の造船所長に就任。蒸気船フルトンを建造するなど、アメリカ蒸気海軍の父とも呼ばれました。

ペリーが生まれたころの世界情勢

1794年、マシュー=カルブレイス=ペリーはロードアイランド州のニューポートで海軍軍人のクリストファー=レイモンド=ペリーと妻のセーラの間に三男として生まれました。

ロードアイランド州は全米50州の中でも最も小さい州で、日本の滋賀県とほぼ同じくらいの大きさです。

ペリーが生まれた1794年は、アメリカ独立戦争から20年ほどが経った頃で、新国家アメリカをどのように作っていくか、試行錯誤を繰り返していた時期でした。

同じころ、ヨーロッパではフランス革命が勃発。国王ルイ16世を処刑したジャコバン派のロベスピエールが主導権を握っていた激動の時代です。

ペリーの少年時代はナポレオン戦争の真っただ中。アメリカはフランスからルイジアナを買い取って領土を拡大していた時期でした。1809年、ペリーはわずか14歳で士官候補生としてアメリカ海軍に入隊します。

米英戦争の英雄となった兄

1775年に始まったアメリカ独立戦争は1783年のパリ条約で終戦を迎え、アメリカは独立を達成しました。その後もアメリカとイギリスは対立を続けます。インディアンの支配する土地をめぐって、アメリカとイギリスは互いに所有権を主張し争っていたからです。

ナポレオン戦争が激しくなると、イギリスは海上封鎖を実行。アメリカ経済も巻き込まれてダメージを受けました。

1812年、第4代大統領マディソンはイギリスに宣戦布告。米英戦争が始まりました。戦いは両国の指導者が思っていたよりは規模が拡大します。

1813年、アメリカ海軍とイギリス海軍は五大湖の一つであるエリー湖で激突しました。この時、アメリカ海軍を率いたのがペリーの兄であるオリバー=ハザード=ペリーです。

エリー湖の戦いはアメリカ海軍の圧勝に終わり、オリバーは米英戦争の英雄となりました。

アメリカ蒸気船海軍の父

ペリーは兄二人とともに米英戦争に参戦しました。その後も海軍でキャリアを重ねたペリーは1833年にブルックリン海軍工廠の造船所長となります。

このころ、船の歴史に大きな革命が起きようとしていました。蒸気船の誕生です。蒸気船そのものは18世紀末に発明されていました。実用化されるのは1807年。ロバート=フルトンがハドソン川で外輪式蒸気船のクラーモント号を運行させたのが実用化の始まりとされますね。

ペリーがブルックリン海軍工廠の造船所長だったころには、軍艦の蒸気船化が進んでいました。1840年のアヘン戦争や1856年のアロー戦争では蒸気船の優位が証明され、より一層の性能向上が図られます。

ペリーが日本来航の時に乗ってきたミシシッピ号サスケハナ号も蒸気船戦艦ですね。ペリーはアメリカ海軍屈指の蒸気船乗りで、蒸気船海軍の父とたたえられました。

ペリー来航直前の東アジア

ペリーが日本にやってきたころ、東アジアは激動の時代を迎えていました。18世紀に圧倒的な力を誇っていた中国の清朝はイギリスとのアヘン戦争に敗れ、弱体ぶりを世界にさらしてしまいます。アヘン戦争後には太平天国の乱が勃発。さらに国力が衰退してしまいました。日本では250年以上続いた江戸幕府が力を失い、藩政改革に成功した雄藩が存在感を増します。

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