日本遺産に認定された巡礼「西国三十三所巡り」とは?歴史と代表的な札所寺院を元予備校講師がわかりやすく解説
西国三十三所とは
奈良時代に始まったとされる西国三十三所巡りは、観音信仰は平安時代の花山法皇の時代に再興されました。観音菩薩が安置されている三十三所の霊場を札所として巡る西国三十三所が確立したのは室町時代のことと考えられます。観音菩薩のいる三十三所をめぐると、現世で犯した罪業が消滅し、極楽往生できると考えられました。西国三十三所の歴史についてまとめます。
西国三十三所のはじまりと観音信仰
西国三十三所は、近畿地方から岐阜県にかけて分布する33カ所の観音霊場の総称です。霊場巡りの歴史は古く、各地の霊場を札所とした西国三十三所の巡礼は国内屈指の歴史の古さですね。
信仰の対象となっている観音菩薩は、観世音菩薩、観自在菩薩、救世菩薩とも呼ばれます。観音菩薩は有名な経典である「般若心経」にも登場する菩薩で、勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍として安置される仏でもありました。
西国三十三所の札所が三十三カ所である理由は、観音菩薩が衆生を救い説き、33の姿に変化するとされたからです。
伝承によれば、西国三十三所を初めて設置したのは奈良時代の718年。長谷寺を開いた徳道上人が閻魔大王の啓示を受けて開いたとされます。開創当初はあまり受け入れられませんでした。しかし、花山法皇が熊野権現の託宣を受けて西国三十三所を再興します。
西国三十三所巡礼の成立
鎌倉時代から室町時代にかけて、霊場めぐりとしての三十三所巡礼が形成されました。西国三十三所めぐりが一般人を含めメジャーになるのは室町時代にあたる15世紀だと考えられます。
西国三十三所の寺院は大きく分けて3つのパターンに分類可能。一つ目は、古くからの権門寺院です。興福寺、三井寺、石山寺、清水寺、醍醐寺、泉涌寺はいずれも権門寺院として古くから有力者の信仰を集めました。
二つ目は青岸渡寺をはじめとする地方の有力寺院。このパターンが一番多く、全体の3分の2を占めます。三つめは京都市中の中小寺院で六波羅蜜寺など3寺が該当しますね。
起点である青岸渡寺から巡礼を開始し、華厳寺に終わる三十三所の巡礼は行者や熊野比丘尼といった宗教者によってはじめられ、彼らに導かれるようにして民衆の巡礼が始まりました。
近世の西国三十三所信仰
戦国時代から江戸時代にかけて、同じ信仰を持つ人々が「講」という組織を形成しました。もっとも有名な「講」は富士山を信仰する「富士講」や伊勢神宮に参拝する「伊勢講」です。これらと同じく、観音菩薩や観音経を信仰する人々の講を「観音講」といいました。
江戸時代、伊勢神宮や高野山、比叡山などともに西国三十三所も巡礼の対象としてクローズアップされます。三十三の寺は霊場とされ、「札所」とよばれました。これは、観音講の巡礼者が寺院の本堂の柱などに、木星や金属製の札を打ち付けたことに由来します。
札所を訪れたあかしとして、寺院から渡されるのが「御朱印」。御朱印には札所印、梵字の本尊印、札所の寺院印や本尊名などが記入・押印されました。
西国三十三の札所を巡る旅は、全長1000キロメートルに及びます。交通機関が現代ほど発達していない江戸時代には、全て徒歩で巡礼を行いました。
西国三十三所の名刹
西国三十三所の中には、数々の名刹があります。本来、三十三カ所すべてを紹介したいところですが、今回は筆者の独断と偏見により7カ所の寺院を紹介しましょう。古代からの権門寺院もあれば、歴史の教科書で見たような貴重な仏像・文物を所蔵している寺院もありますよ。
第五番札所 葛井寺(ふじいでら)
大阪府藤井寺市にある真言宗の寺院です。草創は725年。聖武天皇の勅願により大仏造営で活躍した大僧正行基が創建したと伝えられます。葛井寺は何度か荒廃しましたが、そのたびに復興されてきました。
平安時代の後期から観音霊場として知られ、西国三十三所が成立するとその一つに数えられます。平安時代後期の1096年に荒廃した伽藍を藤井安基が再興しますが、南北朝時代や室町時代に兵火によって損傷しました。1510年には地震のため多くの建物を失います。現在の建物は江戸時代以降に再建されたものですね。
葛井寺の本尊は千手千眼観世音菩薩坐像。唐招提寺や三十三間堂の観音とともに、三観音の一つとして知られます。現在、葛井寺の観音像は秘仏とされ、毎月十八日のみ開扉。一つ一つの手を丁寧に作った葛井寺の観音の姿は見るものを圧倒します。
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