薩摩士族に殉じた西南戦争
明治維新後、西郷は廃藩置県などを断行し中央集権化に貢献します。しかし、征韓論をめぐる政府内部の対立である明治六年の政変によって西郷は明治政府を辞め、鹿児島に帰郷しました。明治政府が次々と進める近代化に対し、西南諸藩の不平士族たちが相次いで挙兵。西郷も鹿児島県士族に担がれる形で挙兵し西南戦争が始まりました。
御親兵の創設と廃藩置県
戊辰戦争に勝利した新政府は矢継ぎ早に改革を行っていきます。旧幕府を倒したといっても、旧幕府の領土は全国の4分の1強に過ぎません。残りの地域を支配している藩をどのようにするべきか明治政府にとって重要な問題でした。
1869年、大久保利通や木戸孝允の発案で版籍奉還が実行されます。これにより、全国の諸大名は土地と人民を天皇に返還。自らは新たに知藩事として任命されます。名目上、全国の土地は天皇のものとなりましたが、実質は江戸時代以来の藩の支配が継続しました。
1870年、長州藩出身の山県有朋は薩摩に戻っていた西郷に東京に移した天皇を守護するための軍の編成を提案。これに応え、西郷は薩摩・長州・土佐の兵で御親兵を編成し東京に向かいました。御親兵という武力を得た明治政府は1871年に廃藩置県を断行。明治政府は中央集権国家へと変貌します。
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征韓論と明治六年の政変
明治維新で新政府が成立して後、明治政府は朝鮮政府に対して国交樹立を求めてきました。しかし、朝鮮側が西欧化した日本との国交樹立を拒否します。
朝鮮政府との交渉が頓挫する中、西郷は自ら朝鮮に大使として渡り、武力を用いてでも国交交渉などの懸案を解決するという「征韓論」を主張。自分の派遣を閣議決定しました。
このころ、岩倉具視や大久保利通は「岩倉使節団」の随員として外遊中だったため、西郷に反対する人はいません。
岩倉や大久保は帰国すると朝鮮問題よりも国内整備が優先と主張して西郷の朝鮮派遣に反対しました。西郷は一度閣議で決まったことは覆すべきではないと強硬に主張しますが、最終的に岩倉・大久保らの主張が通り西郷派遣は取りやめとなります。
このことに不満を持った西郷らは政府を辞めて故郷に帰ってしまいました。これを明治六年の政変といいます。
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西南戦争と死
西郷が鹿児島に帰郷したころ、西南諸藩を中心に明治政府に対する不満が渦巻いていました。1872年に出された徴兵令や1874年の廃刀令は士族たちの存在意義を否定するものです。さらに、秩禄処分によって士族たちは収入の途を絶たれ計座的に困窮しました。
鬱積した不満が爆発したのが1874年におきた佐賀の乱です。その後も、萩の乱、神風連の乱、秋月の乱など西南諸藩で士族反乱が相次ぎました。
1877年、鹿児島県士族と政府軍の衝突から西南戦争が勃発。西郷は鹿児島県士族に担がれて総大将となります。西郷軍は鹿児島を進発後、熊本城を包囲しますが陥落させることができません。
そのうち、次々と援軍を繰り出す政府軍の前に徐々に西郷軍は後退を重ねます。挙兵から8か月後の9月、政府軍は鹿児島に突入し西郷は政府軍との戦いで戦死しました。
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「ここらでよか」といったときの西郷の気持ちはどのようなものだったのか
西南戦争の最期の戦いである城山の戦い。西郷は鹿児島城下での戦闘で負傷します。弾丸を受けて歩けなくなった西郷は付き従う別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言って天皇がいる東を向いて拝礼しながら別府晋介に首を打たせました。島津斉彬の側近として大活躍し、明治維新後は「大西郷」と称えられた維新の元勲は、最後の最後まで天皇への忠誠を示しつつこの世を去りました。