室町時代日本の歴史

室町幕府に反抗し続けた「鎌倉公方」とは?成り立ちや分裂など経緯をわかりやすく解説

室町幕府には、関東を統治するために置いた鎌倉府という出先機関のようなものがありました。そこの主が鎌倉公方(かまくらくぼう)です。出先機関ですから、将軍に従うのは当然のはずでした。しかし、鎌倉公方は設置直後から終始幕府に対して反抗的な態度を取り続けました。どうしてこうなってしまったのでしょうか?鎌倉公方の成り立ちや幕府との抗争などを解説していきたいと思います。

鎌倉府の設置と鎌倉公方

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鎌倉公方は、足利将軍家による関東地方統治のための機関として置かれた鎌倉府の長官で、足利尊氏(あしかがたかうじ)の四男の血を引く家が代々受け継ぐこととなりました。ここでは、鎌倉府と鎌倉公方がなぜ設置されたのかを中心にご紹介していきましょう。

関東統治のための鎌倉府の設置

室町幕府の場合、将軍の拠点は京都にありました。ここに将軍がいて統治を行ったわけですが、やはり遠い地方にまでは目が行き届きません。その例が関東地方でした。将軍家である足利氏の嫡流の出身地・下野(しもつけ)がある場所ですから、ここをしっかりと支配できなくては面目が立ちません。

そのため、幕府は関東統治のために鎌倉府を設置することとしました。その長官が、今回ご紹介していく鎌倉公方となるわけです。鎌倉公方はいわば将軍の代理であり、当時は「鎌倉殿」と呼ばれていました。

初代鎌倉公方は、室町幕府を創設し初代将軍となった足利尊氏の四男・基氏(もとうじ)です。以後は彼の子孫が鎌倉公方を代々務めることとなります。そして、鎌倉公方を補佐するのが関東管領(かんとうかんれい)でした。

鎌倉公方が置かれた理由

鎌倉公方は関東統治のために設置されたとすでにご紹介しましたが、そこに至るまでにもいろいろありました。

足利尊氏と弟の直義(ただよし)が対立し、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が勃発したのです。これは幕府の大きな内紛でした。しかも、直義は尊氏からの信頼は絶大で、右腕のような存在だったのです。やがて乱は収束しましたが、直義は幽閉され、まもなく亡くなりました。

この乱に際し、関東支配を固めていた尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)は、父を助けるべく上京し、直義の代わりに政務に参加します。すると、関東を統治する者がいなくなってしまったため、鎌倉公方を設置する運びとなったわけです。鎌倉公方に選ばれた基氏はまだ10歳だったため、補佐役として関東管領がつけられました。当初は関東執事と呼ばれていたそうです。

実は幕府と将軍に反抗的!?

鎌倉府は幕府の意志によって設置された機関ですから、鎌倉公方は将軍に従う立場でした。しかし、元をたどれば足利尊氏の子の流れを汲むわけですから、同じ血筋である将軍に対して遠慮する理由などないという考えが鎌倉公方の中には代々根付いていくこととなります。

このため、幕府で内紛などが起きて体制が揺らぎかけると、鎌倉府はいつも不穏な動きを見せるようになりました。すでに、2代・足利氏満(あしかがうじみつ)、3代・足利満兼(あしかがみつかね)、4代・足利持氏(あしかがもちうじ)と、常に将軍に対して隙あらば牙を剥くような行動を取っていたのです。

幕府に対して最も強烈に反抗した足利持氏・成氏親子

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自分たちも足利将軍家の血を引く者という自負があった鎌倉公方家は、ついに幕府と将軍に対して反抗します。将軍後継問題に絡んで起きた永享の乱(えいきょうのらん)は、鎌倉公方の一時断絶を招きました。その後復活した鎌倉公方ですが、今度は足利成氏(あしかがしげうじ)が公然と反抗します。彼の起こした享徳の乱(きょうとくのらん)は、約30年に渡って幕府を手こずらせ、関東を戦乱の渦に叩き落とすこととなるのです。

将軍職を望んだ鎌倉公方・足利持氏

特に、公然と将軍に対して反抗したのが、4代・足利持氏でした。5代将軍・足利義量(あしかがよしかず)が亡くなり、後見役をつとめていた前将軍・足利義持(あしかがよしもち)もまた続けて亡くなると、将軍職は宙に浮いてしまいます。

持氏は、自分もまた将軍家の血を引く者で力量は十分と自負していましたから、将軍となることを望んでいました。ところが、重臣たちの協議の結果、後継は義持の弟たちの中からくじ引きで選ぶこととなり、持氏は蚊帳の外となってしまったのです。

そして、僧となっていた足利義教(あしかがよしのり)が還俗して6代将軍となったのですが、持氏は彼を敵視し、「くじ引き将軍」と嘲笑って公然と反抗するようになったのでした。

持氏の死と遺児・成氏の登場

やがて持氏は関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)とも対立し、永享10(1438)年、永享の乱を起こします。鎌倉公方による将軍への反乱という前代未聞の乱でしたが、将軍・義教は討伐命令を下し、結局、持氏は自害して鎌倉公方はいったん断絶してしまいました。

しかし、義教自身が家臣に暗殺されるなど情勢が不安定になった幕府は、永享の乱から数年後、持氏の遺児・成氏に鎌倉府再興を許します。ただ、この成氏もまた、これまでの鎌倉公方たちと同様、幕府に対して反抗的な態度を取るようになるのです。しかも、成氏は当時の将軍よりもよほど気骨があり精力的な人物だったため、反乱は収まることなく、拡大していくこととなりました。

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