日本の歴史

一般市民が兵隊に?「徴兵令」とはどういうもの?その歴史と意義を探ってみた

「徴兵令」から「兵役法」に

1889年の徴兵令改正で免役条項はほぼ廃止され、表立って徴兵逃れができないシステムになっていきました。東アジアでの情勢がキナ臭い雰囲気になってくるとともに、戦争の準備も始められ、日清日露の戦いを経て国民の間にもようやく「国に対して務めを果たすのが当然」といった空気が醸成されていきました。

やがて人類初の世界規模での戦いといえる第一次世界大戦の終了とともに総力戦体制が重要視されてくると、1927年には「兵役法」に改正されます。言葉のニュアンスとしては、兵役法の方が義務感たっぷりに聞こえますね。男子の場合、20歳になると徴兵検査を受けねばならず、合格者は志願する以外は抽選で入営することになっていました。また入営しなかった者も教育召集を受けることで補充兵役へ移ることになり、国の思惑通りの総動員体制ができあがっていったのです。

また兵役法では従来の入営期間が3年だったのに対し2年に短縮し、そのぶん徴兵できる数を増やしました。いざ有事のあった際により多くの兵隊を動員できるようにしたのですね。時代は折しも満州事変、そして日中戦争へと向かう時代でした。

乱発された赤紙

日中戦争が勃発し、日本軍が中国大陸へ広く展開するようになると兵役法に従って多くの者が召集されました。太平洋戦争に突入し中国大陸だけではなく満州、東南アジア、太平洋方面へ戦線を拡大するにつれて、その召集数は飛躍的に増大していったのです。

日本の国力を度外視した無謀な戦線拡大は前線の兵員不足と補給困難を招き、いくら兵を補充しても損害に追い付かないという現象が発生しました。切羽詰まった政府は1943年に、それまで徴兵が猶予されていた文科系学生を徴兵し前線へ出征させました(学徒出陣)。同年には朝鮮半島でも徴兵が開始され、翌年には台湾でも始まります。

召集令状は【赤紙】と呼ばれましたが、赤紙が届くと例え親が無くなっても、いくら大事な仕事があっても出征しなければなりませんでした。そのまま直接戦地へ赴くわけではなく、兵営地で訓練し兵種によって分類された上で任地が決まります。

一例として、名古屋で編成された第43師団はそういった赤紙の召集兵たちで組織された師団でしたが、のちにサイパン島で全滅していますね。召集されたからといって安全な地域で軍務に就くこともありましたし、生きて帰れない激戦地へ送られる場合もありました。全ては運次第だったともいえるでしょう。

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明石則実