日本の歴史昭和

太平洋戦争のきっかけとなった「真珠湾攻撃」をわかりやすくを解説

1941年から1945年までアメリカと日本の間で起こった太平洋戦争。しかし、なぜ日本はアメリカという超大国と絶望的な戦争に挑むことになったのでしょうか? 今回はそんな太平洋戦争の始まりとなった真珠湾攻撃について日本の動向とその後を解説していきたいと思います。

アメリカと日本が対立した流れ

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1941年12月8日。日本がハワイ諸島のパールハーバー(真珠湾)を攻撃したことによって太平洋戦争の幕が上がりました。しかし、どうして日本は世界最大級の工業力を誇るアメリカと戦争状態に突入していったのでしょうか?

実はそこには日本とアメリカの対立の歴史とそれに伴う日本の事情が存在したのです。

まずは、日本が真珠湾を攻撃するまでの流れを見ていきましょう。

泥沼化する中国との戦争

日本がこの頃第一に考えていたこと。それは中国にある利権の確保でした。1931年の柳条湖事件以降日本は満州国を設立し、それからというものの熱河作戦などの華北分離工作などの日本の利権の確保に執着していきます。

もちろん、この行動は国際的からも非難を受けてしまい日本は常任理事国だったのにもかかわらず国際連盟を脱退。国際的にも孤立してしまいました。

しかし、日本の暴走はここで止まることはなく、その後も中国の利権を貪りまくり、挙げ句の果てには1939年7月7日北京郊外の盧溝橋で事件が発生。日本軍はこれを決起として中国に宣戦布告なしで侵攻を開始。いわゆる日中戦争の火蓋が切って落とされました。

日本軍は破竹の勢いで中国を占領していくのですが、中国の国土は広大な上に、中華民国の粘り強い抵抗もあってか戦線は膠着。さらにはアメリカやイギリスなどがベトナムやビルマ方面から援助を開始して中華民国を助けようとする援蒋ルートを開削。そこから莫大な援助を施していたのです。

日本による仏印進駐

このようなアメリカの行動は日本からしたら目障りでした。1940年第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパ方面で破竹の勢いで勢力を広げているドイツがフランスを占領。

これを見て日本は降伏したフランスの植民地であったインドシナ半島北部に進駐。翌年には南部も進駐を果たし、援蒋ルートの一つであったインドシナ半島の制圧を成し遂げます。

しかし、これをアメリカが黙って見ているはずはありませんでした。アメリカは1941年の南部仏印進駐を見るや否や遂に堪忍袋の尾が切れ日本に対する石油禁輸制裁を発表。これによって日本にはアメリカの石油が一滴も入らない状態となり、日本は苦境に立たされることになるのでした。

日本の焦りとアメリカとの交渉

アメリカの石油が入ってこなくなってしまった。これは資源が全く取れず、石油などを輸入に頼っている日本からすれば大打撃でした。

当時日本には1年半ぐらいの備蓄しかなく、このままいけば日本の産業は破綻に追い込まれてしまいます。

日本はこの仏印進駐を平和的なものと主張しましたが、もちろんアメリカはこれを受け入れるはずもなくアメリカ国務長官であるコーデル・ハルはインドシナ半島から撤退することが石油輸出制裁の解除の大前提だと伝えたのでした。

日本はここに来てようやくまずいと判断。アメリカに対してなんとか制裁を解除しようと必死となったのでした。

平行線の日米交渉

こうして日米交渉が開始されましたが、当時の日本がアメリカの要求を譲歩することはありませんでした。それもそのはずこの当時の日本はアメリカやイギリスなどに勝てると強気の姿勢。新聞などのマスメディアは軍部を支持するような記事を書き、また内閣もこの頃五一五事件のように軍部の意見に逆らうようなことをすると殺されるかもしれませんので、なかなかアメリカの要求を飲むことはできませんでした。

アメリカ側はインドシナ半島はもちろん、中国大陸からの即座の撤兵と、この当時結んでいた日独伊三国同盟の破棄などを要求しました。

日本側は当時外務大臣であった東郷茂徳が作成した乙案という軍部の反対を押してなんとかアメリカ側に譲歩した内容の提案をしましたが、それでもアメリカの要求をのらりくらりとかわしているに過ぎず、アメリカが満足するような内容ではありませんてました。

アメリカ側は11月26日にハルノートを提出。

第1項にはハル四原則という他国の問題に介入することはせずに、平和的な国際協力を行うことが書かれており、第2項にはそのハル四原則を踏まえて10の具体的な措置が示されました。

日本からしたらこんな条件はうけいられるはずもなく遂に日米交渉は決裂。遂に真珠湾攻撃まで一直線の状態に入ったのでした。

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