室町時代戦国時代日本の歴史

魅力が倍増する戦国武将の「武勇伝」!感動すること間違いなし

戦国武将にはつきものの武勇伝ですが、ただ勇ましいだけではないのが特徴でもあります。今回は、たくさんの戦国武将がそれぞれに持つ武勇伝の中から、インパクトだけではなく、主君に対する忠義や思いの強さが特に感じられるものを4つご紹介しますね。戦国武将がどんな思いを抱えて戦っているのかを知れば、より彼らの魅力を感じられると思いますよ。

戦国最強の呼び声高い島津義弘、伝説を作った関ヶ原での戦い

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九州統一をほぼ目前にして豊臣秀吉に屈した薩摩(鹿児島県)の島津氏ですが、島津義弘(しまづよしひろ)は戦国最強との呼び声が高い名将です。多くの戦で無類の強さを誇り、李氏朝鮮との戦役である文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では、敵軍に「鬼島津」と呼ばれ恐れられました。

歴戦の名将である義弘の戦いの中で、彼の名を最も高からしめたのが、関ヶ原の戦いにおける退却劇です。彼の武勇伝といえばまず挙げられる、歴史に残る凄まじい戦いぶりをご紹介しましょう。

本当なら東軍に参加するはずだった関ヶ原の戦い

慶長5(1600)年に起きた関ヶ原の戦いでは、石田三成らを中心とした西軍と、徳川家康を総大将とした東軍が激突することになりました。

当初、義弘は東軍に参加するはずだったそうです。伏見城に籠もる東軍の武将に助太刀することになっていましたが、連絡の行き違いがあり、彼は入城を断られてしまいました。そのため、義弘の隊は西軍の大軍の中にぽつんと孤立してしまう状況となり、東軍から西軍へ転じたのです。

敵中に孤立した義弘、敵中突破を選ぶ

一方、関ヶ原の戦い本戦は、西軍の武将が東軍に寝返り、半日で勝敗が決しました。

この時、義弘の隊は敵中の真っただ中にありました。

「このままでは囲まれて全員がやられてしまう…」

そして義弘が下した決断が、「全軍で敵中突破!」だったのです。

義弘の甥をはじめ、忠実な家臣たちは、自らの命をかなぐり捨てて主君を守る戦いに突入したのでした。

 

命を投げ出して義弘を逃がした家臣たち

義弘隊の猛攻はすさまじく、この時300人ほどに減っていたとはいえ、東軍の勢いにまったくひけを取りませんでした。

また、彼らは、何人かが最後尾に残り敵を引き付けて全滅するまで戦い、次に別の数人が最後尾を引き受け…という捨て身の作戦を敢行し、義弘が退却する時間を稼いだのです。これが「捨て奸(すてがまり)」という戦法で、島津氏に伝わるいわば最後の手段でした。

家臣たちは、ほとんどが志願して最後尾に付いたといいます。彼らが義弘に捧げた忠義は、私たちの想像以上に固いものだったのです。

敵中突破を果たし、薩摩に帰り着く

敵中突破の先頭に立った義弘は、驚異的な猛攻で東軍を退けていきました。

徳川家康の四天王・本多忠勝(ほんだただかつ)を落馬させ、同じく四天王の井伊直政(いいなおまさ)や家康の息子を負傷させ、ついには敵中突破を果たしたのです。

ただ、薩摩に帰りついた時には、その数はわずか80人余りにまで減っていました。敵中突破の過酷さを感じさせますね。

義弘のこの武勇伝は、「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれ、後世にまで彼の名を高からしめる伝説となりました。

戦国最強をうたわれる島津義弘の際立つ強さは、彼自身の強さだけではなく、彼のために命を捨てた家臣たちの忠義心に支えられていました。

それは、日ごろから家臣を何よりも大切にし、当主である兄の義久よりも慕われていたという義弘の度量の広さがあったからこそなんです。

16万の大軍相手に堂々と対峙した「天下無双」の本多忠勝

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徳川家康を支えた4人の重臣は、徳川四天王と呼ばれました。中でも、本多忠勝(ほんだただかつ)は最も武勇に秀でた戦国武将。長さ6mとも言われる「蜻蛉切(とんぼきり)」という槍を手に戦場を駆け巡った彼は、生涯57度の戦に参戦してもかすり傷ひとつ追わなかったと言われています。それもすべて、主君・家康のためでした。彼の固い忠義心が生んだ武勇伝をご紹介します。

窮地に陥った主君を、身を挺して逃がす

当時は戦国最強をうたわれた武田信玄と、まだそこまで力のなかった徳川家康とが戦火を交えた時がありました。

一言坂(ひとことざか)の戦いと呼ばれる戦闘で、武田軍に蹴散らされた家康軍は、武田の猛追撃によって壊滅寸前にまで追い込まれました。

敵将は武田の猛将・馬場信春(ばばのぶはる)。忠勝を上回る、生涯70回の戦に参加して無傷だったという伝説を誇る武将です。

この前に立ちはだかったのが、忠勝でした。

家康を何とか逃がした忠勝は、自ら殿(しんがり/退却の最後尾)を引き受けていたのです。

忠勝の奮闘ぶりはすさまじく、さすがの武田軍も思わず道を開けてしまったほどでした。

こうして、家康を逃がした忠勝は、無傷で主のもとに帰還したのです。

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