10位「姫若子」の覚醒・長宗我部元親
土佐統一を果たし、四国に覇を唱えた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)ですが、若いころは実に頼りなく、ひ弱な雰囲気の若君でした。背ばかり高く、色白で口数も少なく、人に会っても挨拶さえせずにぼんやりしているような少年で、人々はひそかに「姫若子(ひめわこ)/お姫様のような若君」と呼んでいたそうです。父も彼に跡を継がせていいものか相当悩んでいたとか。
初陣となった長浜の戦いに際しても、合戦直前になって彼は家臣に槍の使い方をたずねるほどでした。実に頼りない初陣のはずでしたが、いざ戦が始まると、突然、元親は覚醒します。50騎を率いて戦場に突入し、部隊だけで70余りの首級を挙げてみせると、父の静止を振り切り、敵方の城を奪い取ったのでした。元親自身も2人の騎馬武者を討ち取っており、初陣としては驚くべき功績を挙げたのです。
このことで、人々が彼を見る目は一変。元親は「鬼若子(おにわこ)」と呼ばれ恐れられるようになり、以後、土佐統一へと快進撃を見せていくことになるのでした。
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9位 やることなすこと規格外だった森長可
気に入らない者ならすぐ殺してしまう織田信長が、何をしても許したのが森長可(もりながよし)という武将です。森蘭丸(もりらんまる)の兄でもありますよ。
長可は15歳での初陣で27もの敵の首を挙げてきたと伝わっており、その勇猛さは少年時代から折り紙付きでした。信長が苦戦した一向一揆との戦いでも、自ら敵中に斬り込み、27人を討ち果たしてきたといわれています。その強さから「鬼武蔵」とも呼ばれました。
その一方で乱暴な振る舞いも目立ち、関守を殺した上に「火をつけてやる!」と脅して強引に関所を通り抜けたということもありました。信長に「前進するな」と言われていたにも関わらず勝手に戦闘を始めたこともありましたが、信長は折々で小言は言うものの、彼を罰することはなかったのです。
甲州征伐では城の屋根をはがして内部に鉄砲を撃ち込み、返り血で真っ赤になった姿を負傷したと間違われたことも。また、陣取った場所に神社があり、ご神体だという白蛇が現れると、捕まえて食べてしまったという逸話もあります。
そんな猛将・長可でしたが、小牧・長久手の戦いで敵兵の鉄砲に眉間を撃ち抜かれ、あっけない最期を遂げたのでした。
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8位 2m超の大太刀を自在に操った真柄直隆
朝倉氏の家臣・真柄直隆(まがらなおたか)は、武勇に秀で、身長が2mを超える豪傑だったと伝わります。長さ5尺3寸(約175cm)の「太郎太刀(たろうたち)」を自在に操り、戦場では無敵の強さを誇りました。
朝倉・浅井連合軍と織田信長・徳川家康連合軍が激突した姉川の戦いでは、直隆は家康の家臣でこれまた豪傑の誉れ高い本多忠勝と一騎討ちを演じます。忠勝の武器は6mを超える長槍・蜻蛉切(とんぼきり)で、直隆の太郎太刀と互角の戦いとなりました。
しかし、2人の戦いには決着がつかないまま戦況は朝倉氏不利へと変わり、やがて敗走が始まります。直隆は味方を逃がすために戦場にとどまり、ひとり反攻に転じました。たった1騎で突っ込み、12段構えの敵陣を8段まで突破したのです。ただ、直隆ひとりでは戦況を変えることはできず、やがて深手を負うと、彼は「私の首を取ってお前の家の誉れにするといい」と言い、敵に自ら首を差し出したのでした。
熱田神宮には、直隆のものとされる太郎太刀が所蔵されていますが、こちらの長さは200cmを超えており、伝承以上の迫力を今に伝えています。
7位 戦国の破天荒・水野勝成
徳川家康に仕えた水野勝成(みずのかつなり)は、勇猛果敢すぎるほどの猛将でありながら、後年は名君となったユニークな戦国武将です。
16歳の初陣にしていきなり15もの首級を挙げた勝成。先輩武将の抜け駆けにも食って掛かり、「あなたの指図など受けない」と先陣を切って突撃し、敵を退けるほどでした。
小牧・長久手の戦いの際には、目の不調で兜をかぶっていなかったことを父にとがめられると反発、「見ていろ」と言って敵中突入し、一番首を取るなり出奔してしまいます。その後は京都で無頼な生活をしたり、主君を何度も変えたりしていましたが、やがて父と和解して家督を継ぎました。
大坂の陣では家康から「大将なのだから先頭を切って戦うな」とクギを刺されていたにもかかわらず、大将自ら一番槍を挙げてしまいます。敵は壊滅したものの、家康は怒ったとか。
しかし、戦後に福山藩主となると一変、善政を行い、勝成は一躍地元の名君となります。とはいえ、75歳で息子と孫を率いて島原の乱に出陣しており、矍鑠たる姿を見せ続け、その後、88歳という長寿を全うしたのです。
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6位 主のために玉砕した忠義の戦国武将・鳥居元忠
徳川家康に仕えた家臣たちは、時に「犬の様に忠実」と呼ばれる「三河武士」という類の男たちでした。鳥居元忠(とりいもとただ)もまた、自分の命を賭けて主に忠義を尽くした三河武士で、徳川家康に古くから仕えた家臣のひとりでした。
関ヶ原の戦い直前、伏見城にいた家康は会津に兵を差し向けることになりましたが、石田三成(いしだみつなり)らが挙兵のタイミングを窺っていたため、家康は元忠に伏見城の守りを託すことにしました。
そして家康が会津に出兵すると、やはり三成らが挙兵し、大軍が元忠の守る伏見城を取り囲んで伏見城の戦いが起きたのです。降伏勧告を元忠はきっぱりと拒絶し、家康がこちらに戻ってくるまでの時間を稼ぐことを選びました。
4万の敵軍に対し、元忠らはわずか1,800。それでも、元忠らは必死で敵軍に抵抗を続け、本来なら数日で落城するところを、2週間も持ちこたえたのです。
しかし、やはり多勢に無勢。元忠は討死を遂げ、ほとんどの城兵も彼と運命を共にしました。
元忠の功績を誰よりも理解していた家康は、元忠らの血が染みこんだ伏見城の畳を江戸城の櫓に置き、登城する人々に元忠の忠義と武勇伝を伝え続けました。
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5位 雷さえも斬った無敗の名将・立花道雪
大友氏に仕えた武将・立花道雪は、大将をつとめた37の戦で敗れたことはなく、数百の合戦に参加し、生還した歴戦の名将で、武田信玄も「一目会いたい」と言ったほどの人物です。服前から合戦に参加して数に勝る敵を打ち破った道雪は、大友氏の快進撃に大きく貢献し、全盛期をつくり出しました。
そんな彼ですが、雷に打たれて半身不随となってしまったと伝わっています。大木の下で雨宿りをしていたところ、その木に雷が落ちたのですが、道雪はとっさに刀を抜いて雷を斬って飛びのいたというのです。そのために彼は半身不随となりましたが、その刀は「雷切(らいきり)」と呼ばれるようになりました。
以後、道雪は戦場に出るときは輿に乗るようになったそうです。体の不自由さなど感じさせず、輿の上から采配をふるって敵に突っ込んでいく姿に味方の兵は奮起し、常に道雪の部隊は勝利を収め続けたのでした。
戦に強いだけではなく、道雪は家臣を大切にし、常に目配りを忘れなかったそうです。彼への感謝から、道雪の家臣たちはみな戦場で死を恐れることはありませんでした。