平安時代日本の歴史

最澄(天台宗)と空海(真言宗)はなぜ絶縁関係に?2人の対立の流れをわかりやすく解説

日本の平安仏教といえば真言宗と天台宗。 この二つの宗派がのちの日本の仏教の起点となったり、中心となったりしていくのですが、その開祖はとある仏教の宗派を学びに唐に留学して、帰国した後は対立していくことになっていきました。 今回はそんな天台宗と真言宗の開祖である最澄と空海について学んでいきたいと思います。

両者の生い立ち

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今では真言宗と天台宗という日本の仏教でも1番の勢力を誇っている宗派となりましたが、その開祖である最澄と空海の2人は元々かなりかけ離れていた地位にありました。

エリート出身であった最澄

天台宗の開祖となった最澄(伝教大師)は767年に近江国坂本付近を統治していた豪族の息子として生まれ、12歳の時に近江国分寺に出家。14歳の時には得度を行い最澄という名前をもらいました。

こうして僧侶となった最澄でしたが、奈良時代末期の日本の仏教は乱れっぱなし。中央政府には道鏡というお坊さんが権力を振るっていたり、さらには正式な僧の手続きを行なっていない私度僧という偽物の僧侶が日本中に出現して貴族たちと繋がりを求めて修行を行わないという状態でした。

そんな日本の仏教に嫌気がさした最澄は東大寺にて正式な僧としての手続きを終えた後出身地の近くにあった比叡山で修行を開始。

ここにて仏教の経典である大蔵経を読破して俗世間から離れた修行を行い始めました。最澄はこの地にて788年にのちの根本中堂の原型となる一乗止観院をという小さなお堂を建てて仏の道を歩んでいくのですがこの彼の名声は比叡山近くに都を移した桓武天皇の耳にも届き797年には桓武天皇の側で仕える役職に就任したのです。

こうして最澄は中央政府に認められた僧侶となったのでした。

無名の僧侶だった空海

後に真言宗の開祖となる空海(弘法大師)は774年に讃岐国多度郡に生まれました。

彼の出自はあまり良くはなくさらに次男である空海は家を継ぐことはなく母の実家である阿刀氏の1人である阿刀大足を頼って788年に長岡京に上りました。阿刀大足というのは桓武天皇の皇子の教育係をするほどの教養人であり、空海はそんな彼から論語や史伝などを学びました。

空海は18歳になると阿刀大足の尽力もあり官僚を育てる大学寮に入学。その地にて明経道を専攻して後に彼の得意分野となる書道や学問を学んでいきました。

そんな彼ですが、この頃にハマりだしたのが仏教。空海は大学寮での勉強だけでは物足りなくなってしまい793年に入ると修行を開始。この頃から遣唐使となるまでの間の記録はあまりありませんが、彼は出身地である四国にて修行を行なったとされ、阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などでこもり、洞窟にて修行をした際には空と海しか見えなかったことから空海と名乗り始めました。

しかし、空海は正式に僧侶になる得度という儀式を行っておらずあくまでも立場は私度僧。このように最澄と空海の間にはかなりの身分の違いがあったのでした。

運命の遣唐使

この頃日本ではお隣の国であり文明が発達していた唐に度々使節を送り、そこでいろんな文化を吸収するように努めていました。これがいわゆる遣唐使なんですが804年に桓武天皇は遣唐使を派遣することに決定。

第16回目となる遣唐使にはのちの三筆と1人として空海と並ぶことになる橘逸勢などの官僚がほとんどでしたが、その中でも最澄は国の公式な留学僧である還学生として通訳がついてさらにその費用も国が全額負担してくれるまさしくいたせりつくせりの状態でした。

その一方で空海もこの遣唐使に参加しましたが、その立場はあくまでも留学僧の1人。最澄のような援助ではなかったのです。

さらにこの頃の遣唐使は命がけ。例としてこの時の遣唐使は4隻での出発でしたが、そのうちの第3船と第4船は難破して行方不明。最澄は第1船、空海は第2船に乗船したいたためなんとか無事でしたが、このように大変な思いをした両者は唐に到着したのですが、空海の方はというとなんとか唐に到着したものの航路がかなりそれてしまい海賊に間違えられ50日間の間拘束されてしまいます。しかし空海の天才ぶりはこの時点でも発揮されたそうで彼は嘆願書を理路整然とさらに美しい筆跡で書いたことによって役人から遣唐使として認められ長安に長安に到着しました。

仏教をマスターした空海、マスター出来なかった最澄

こうしてなんとか唐に入国した2人でしたが、最大の目的である仏教の習得ができたかというとそれは2人の間で激しい差が生まれてしまいました。

まず、空海なんですが空海は西明寺に入って密教の第一人者であった恵果に師事。恵果は空海の非凡な才能を見抜き即座に密教の秘儀を伝授し始め、なんと空海はそれをわずか2年でマスターするという快挙を成し遂げます。

恵果は空海に対して伝法阿闍梨という僧侶の模範となるべき人物の位を与えられ、この世を全てを照らすものという意味である遍照金剛という灌頂をもらい正式に僧侶となったのでした。

ちなみにこの時たくさんの経典や曼荼羅や宝具などを持ち帰りのちの真言宗の基礎を築き上げたのです。

その一方で最澄の方はというと彼は天台宗という中国では時代遅れの仏教を学び、さらにその留学期間も1年と決められていたため密教というものを完全にマスターすることはできませんでした。

この2人の差がのちに深い陰を落とすことになるのです。

そもそも密教ってなんなの?

密教というのは教団の中で秘密の儀式や儀礼を伝え教えていく仏教のことを指します。秘密という意味から密の字が使われているのですね。

密教は大日如来が説いたとされているため基本的な経典は『大日経』と『金剛頂経』というものを使い、即身成仏を目指すために身密・口密・意密の三密を守っているのです。

ちなみに、密教と逆の立場にいるのが顕教。これは奈良仏教や鎌倉仏教のように広く大衆向けて仏教の教えを伝えていくというものでした。

最澄と空海の帰国

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こうして2人とも唐にて仏教を学び日本に帰国しましたが、その後は2人とも朝廷で重用されるようになり最澄は比叡山にて天台宗を、空海は高野山に真言宗を開くことになりました。

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