幕末日本の歴史江戸時代

幕府にも勤王にも嫌われていた?「勝海舟」の生涯をわかりやすく解説

西郷隆盛が率いる新政府軍を相手に、旧幕府全部を背負って「江戸城無血開城」をやってのけたとして有名な勝海舟。彼は決して名門の武家の出ではなく貧乏旗本の出身です。才覚と努力とはったりで幕末の動乱の中を突き進んでいった風雲児!勝海舟の一生を追っていきましょう。

とてつもない家から生まれたとてつもない勝海舟

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曽祖父の「銀一」は越後国(新潟県)の貧農の家に生まれた視覚障害の人だったのですが、江戸に出て視覚障害の人には特別に許されていた高利貸しや鍼灸治療医で成功して、朝廷から視覚障害者にとっては最高の位である「検校」をもらったのでした。(買い取ったとも)

そして三男の平蔵に御家人である「男谷(おだに)」家の株を買ってやり、その末っ子が海舟の父である小吉なのですね。小吉は三男だったので男谷家から勝家に婿養子になったということですよ。勝家というのは松平元信が徳川家康と名前を変えたころからの古参の幕臣(御家人→旗本)ですが、当時は「小普請組」という無役の家でした。かなりの貧乏だったらしく、勝海舟は父の実家の男谷家で、文政6年(1823)、江戸本所亀沢町(現在の墨田区)で勝麟太郎として生まれました

父は泣く子も黙る豪傑

勝海舟の父親の勝小吉という人はとんでもない人で、残した日記が夢酔独言』 (講談社学術文庫)と今でも読むことができますが、この日記も内容がとんでもなく面白いと勝海舟が出版したという逸話がありますよ。

とにかく勉強嫌いで喧嘩ばかりしていた人だったようで、あまりの悪さに天井から吊り下げられるとか、14歳の時に突然「伊勢詣り」を家出してしたという話がありますね。この伊勢詣りというのは結構江戸時代に流行っていたそうです。普通に行ったのかと思いきや途中で盗賊に出会って無一文になって乞食をしながら行っちゃったとか。17歳の時に勝家の娘と結婚してますが、とにかく酒も博打もしないかわりに、吉原に行くわ、近所のヤクザと喧嘩しても負けず、道場破りをして回るという回りから恐れられていたそうです。

野犬に大切なところをかまれる!

勝海舟は、文政12年(1829年)6歳の時に男谷家の親類の紹介で11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(12代将軍徳川家慶の五男)の遊び相手として江戸城へ出仕することになりました。その帰り道には今でいう学習塾へ通っていますね。小吉は自分ができなかったことを息子にさせたかったのかもしれません。

9歳の時のことです、そり学習塾の帰りに野犬が袴のすそから入り込んできて、睾丸の1つを食いちぎるという事件が起こりました!外科医に手術をさせますが生死の境をさまようことになります。小吉は近所の金比羅さんに願をかけて裸になって水垢離をして、その冷えた身体で海舟を抱いて寝るということを数日行ったのですよ。そのおかげか70日目には日常生活ができるようになったといいます。それ以来、勝海舟は犬が大嫌いだったという話ですね。

睾丸が1つというと、小吉も伊勢詣りの時に野宿をしていて崖から落ちて1つ潰しています。似たもの親子というか変な話ですよね。小吉の日記には「金比羅」と書いてありますが、それは「能勢妙見 東京別院」の間違いで、それからは熱心な信仰をして、所縁の品々が関東大震災まで残っていたといいますね。境内には勝海舟の銅像がありますよ。

あわよくば一橋家の家臣になれるところだった勝海舟ですが、仕えていた慶昌が天保9年(1838)に亡くなってしまったのでした。夢が消えた小吉は35歳の若さで隠居してしまい、勝海舟は家督を継ぐことになったのですよ。

文武両道で力をつけていく勝海舟

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剣術は、小吉の実家の男谷道場と、小吉の柔術の同輩だったという縁の幕末でも有名な剣士「島田虎之助」の道場で習い、直心影流の免許皆伝の腕前だそうですよ。実際に戦ったという話は聞きませんが、映画『幕末高校生』のラストで勝海舟の立ち回りシーンがありましたね。師匠が島田虎之助なので強かったと思いますよ。

勝海舟というと「蘭学」ですが、天保13年(1842)に始めて、次の年には文章を書けるまでになりました。たみと結婚した翌年の弘化3年(1846)に赤坂田町に引っ越してからは本格的に勉強します。その凄さは、幕府が出版禁止にしていた3000ページもある『ドゥーフ・ハルマ』という蘭和対訳辞書を、貧乏なので写本を買うこともできなかったので10両でレンタルして1年かけて2冊も書き写したのですよ。1冊は自分用、1冊は売ってお金に換えたのですね。

佐久間象山と勝海舟

勝海舟は「佐久間象山」と知り合います。佐久間象山というのは信州松代藩(真田家)の学者で江戸で塾を開いて西洋兵法と砲術を教えていました。弟子には勝海舟の他に「吉田松陰」「坂本龍馬」「河井継之助」「橋本左内」など幕末で活躍した人たちがそろっていたのですよ。ちなみに佐久間象山の奥さんは、勝海舟の妹なのですよ。ずいぶん年上の弟ですね。

そこで大国の清国(今の中国)がイギリスと戦争をして大敗した(アヘン戦争)という話を聞きます。「これからは西洋兵法と蘭学で日本を強くしなくては」と思ったことでしょう。黒船が来航する3年前に佐久間象山のすすめで、田町に西洋兵法と蘭学を教える私塾を作りました。教えながら外国の脅威に敏感だった藩などから大砲や銃の製造も頼まれて、弟子達もたくさんいたといいますね。

ちなみに、佐久間象山と妹の間にできた息子が「父の仇を討つ」ということで、新選組に客分として預けますが、途中で飛び出してしまってますね。隊士だったら切腹ものだったでしょうが。

勝海舟は幕府に認められる!

嘉永6年(1853)、アメリカよりペリー艦隊が来航して開国を迫ってきました。老中の「阿部正弘」は幕閣だけでは意見がまとまらないので、今まで意見を言う機会がなかった藩や市井の人々にまで意見を求めます。たいはんは「異国打つべし」という役に立たない意見の中で、勝海舟が提出した「海防意見書」は後の明治政府の指針にもなったほどのできばえだったので、阿部正広の目に留まるばかりか、目付兼海防掛だった「大久保忠寛(一翁)」にも大いに認められましたよ。そこで安政2年(1855)「異国応接掛附蘭書翻訳御用」に任じられたのでした。

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紫蘭