一般市民が兵隊に?「徴兵令」とはどういうもの?その歴史と意義を探ってみた
兵農分離によって徴兵の時代が終わる
戦国時代も終わりに近くなると、織田信長や豊臣秀吉などのように農民兵に頼らない戦力を保持する勢力が現れました。武士や農民の次男三男を抽出して戦いのプロとして教育訓練し、農耕に従事させることなく合戦のみに専念させるようになったのです。いわゆる【兵農分離】ですね。
そうなると従来の農民兵頼りだった地方勢力ではもはや太刀打ちできません。浅井、朝倉、武田、波多野、別所などの名だたる戦国大名たちは織田軍に滅ぼされていきました。
豊臣政権になってもそれは変わることはありません。勇猛を誇った長宗我部や島津ですら豊臣軍に鎧袖一触にされ屈服していったのです。
また小田原合戦の際、後北条氏は小田原城に籠城さえすれば豊臣軍はあきらめて撤退するものだと目論んでいました。農民兵が主体だったかつての上杉謙信のように。しかし農繁期になっても帰る必要がない豊臣軍に隙はありませんでした。北条方は完全に豊臣方の実力を見誤っていたといえるでしょうね。
やがてその後、太閤検地や刀狩りを行うことで武士と農民の階級差が如実に表れるようになり、日本の中世における徴兵時代は終わりを迎えたのです。
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徴兵令ふたたび【天皇の軍隊】
武士の時代が終わり明治の代を迎えると、再び日本に徴兵制度が復活することになりました。近代日本が世界と向き合わねばならなくなった時、果たして人々は「徴兵令」に対してどのような反応を示したのでしょうか。
「徴兵令」を拒絶した一般民衆たち
1873年、徴兵令が発布されて国民は兵役を負う義務があるとされました。殖産興業もまだ黎明期にあり、幕末から明治維新にかけての内乱でとにかくカネがなかった明治政府は、税と同じ感覚で人間を徴発できる徴兵制に飛びついたのです。
ところが国民の多くは納得しません。戦いのプロたる士族がたくさんいるのに、なぜ国民が兵隊に取られねばならないのだと。地租改正反対運動と合わせて血税一揆が起こるなど、世情は不安になっていきました。
そこで明治政府は理屈をかつての律令制に求めました。「かつての律令時代のように国家を守ることは国民の義務なのだ」と。しかし民衆はあらゆる手段を尽くして抵抗しました。戸主と長男は兵役を免除されることに加え270円の税納付をすれば兵役を逃れられます。そのため分家や養子縁組など次男三男にならないための工夫が考えられ、結局は9割もの男子が兵役を免れるという事態にまで発展したのです。
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