室町時代戦国時代日本の歴史

日本銀の最大産出地「石見銀山」って?歴史や見どころをわかりやすく解説

山陰地方にある島根県太田市。この町に、かつて世界屈指の産出量を誇った石見銀山がありました。世界で産出される銀の3分の1を占めた日本の銀山の中でもトップクラスの産出量をほこったのが石見銀山です。今回は、銀の歴史を振り返りながら、戦国大名たちも争奪戦を繰り広げた石見銀山の歴史や見どころについてわかりやすく解説します。

世界史で重要な役割を持った銀

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人類の歴史において、銀は金と並ぶ重要な貴金属でした。銀は希少価値があったので宝飾品や食器などへの利用だけではなく、貨幣としても流通するようになります。やがて、大航海時代を迎えると世界の海を支配したスペインやポルトガルの船がヨーロッパや中国に大量の銀を持ち込みました。ヨーロッパでは価格革命の引き金となり、中国では銀中心の経済が発展します。

貴金属としての銀

銀は、金と並んで貴金属として尊重された鉱物です。白く輝く銀は日本では白銀とも呼ばれますね。銀を使用したアクセサリーは昔から人気があります。しかし、銀は酸化しやすく丁寧に手入れをしなければいけません。

また、硫黄と反応すると硫化銀になってしまいます。うっかり、銀製品を硫黄質の温泉につけると真っ黒になってしまうので要注意ですよ。ヨーロッパでは銀は高級食器の材料として人気がありました。

ナイフやフォーク、皿などが代表的な銀食器ですね。銀は薄く延ばすこともできるので銀箔として利用されることも多々あります。

金と並び称されるだけあって、銀は高級感をだすのにうってつけなのでしょう。後世、銀の価格が下がっても銀が持つ高級なイメージは受け継がれました。

貨幣としての銀

金に比べて産出量があり、かつ希少な金属だった銀は高額商品の決済などに用いられます。もっとも古い銀貨は古代オリエントのリディアで発行されたものですね。

ギリシアで最も有力なポリスとなるアテネはラウレイオン銀山で多くの銀を得ていました。アテネはこの銀を元手に交易や軍事力強化をおこないます。金よりも産出量が多く、希少価値があった銀は世界各地で貨幣として流通しました。

江戸時代の日本では主に関西圏で広く流通します。江戸時代の日本は関東の金中心経済と関西の銀中心経済の二つの経済圏で成り立っていました。そのため、金貨である小判と銀貨である丁銀・豆板銀を交換する両替商が活躍します。

銀は19世紀末まで貨幣として重要な位置づけでしたが、徐々に貨幣としての役割を終え、現在は工業原料として用いられることが多くなりました。

スペイン銀の流通と中国の経済発展

16世紀になると、ヨーロッパで外洋航海技術が発達します。スペインやポルトガルが世界各地に進出。スペインは南米のメキシコのアステカ帝国やペルーのインカ帝国を滅ぼし、植民地としました。

スペインは南アメリカの原住民であるインディオたちを労働力として、積極的に銀を採掘します。南アメリカ最大の銀山であるポトシ銀山などで採掘した銀は、海を渡ってヨーロッパに持ち込まれました。あまりに大量に銀が持ち込まれたことで、ヨーロッパの銀相場が暴落してしまったほどです。

銀はメキシコのアカプルコからアジアに向けても運ばれました。銀の行く先は経済の発展で大量の銀を必要とした中国。日本からも大量の銀が持ち込まれた中国では、経済活動がさらに活発になりました。

中国経済に大きな影響を与えた日本の銀

明から清にかけて、経済が大きく発展した中国では貨幣としての銀の需要が高まっていました。銀の流通量増加により、明や清では銀を中心とした経済システムが確立。税を銀でおさめる仕組みが作られます。

明の時代には土地税と人頭税も銀でおさめさせる一条鞭法が発布されました。清の時代になると、人頭税は土地税の中に組み込まれ、地丁銀として一括徴収されるようになります。

日本周辺で貿易活動を行っていたポルトガルは明・清での銀の需要増加に目を付けました。ポルトガル人たちは日本で銀を手に入れ、明や清にわたります。明や清では中国産生糸や絹織物を仕入れ、日本の銀を商品の代金として支払いました。生糸や絹織物は日本に持ち込まれ、銀と交換されます。ポルトガル人たちはこの貿易で多くの利益を上げました。

石見銀山の歴史

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17世紀初め、日本の銀産出量は世界有数でした。日本を代表する銀山として世界に知られたのが石見銀山です。石見銀山では灰吹法とよばれる銀の精錬技術を駆使して、銀の産出量を増やしました。石見銀山の富をめぐって大内氏や尼子氏、毛利氏が争いを繰り広げます。最終的に、石見銀山は江戸幕府によって管理されるようになりました。

石見銀山の採掘開始と灰吹法

石見銀山の歴史を記した『石見銀山旧記』。この記録によれば、石見銀山が発見されたのは鎌倉時代末の1309年だといいます。一時、採掘が中断されていた石見銀山が本格的に採掘されるのは16世紀のことです。博多の商人である神屋寿禎(かみやじゅてい)が石見銀山を再発見。周防の守護大名大内義興の支援を得て採掘に乗り出します。

神谷は博多から技術者を招き、海外から伝わった銀の精錬技術である灰吹法で銀を製錬し銀の生産量を増やしました。灰吹法とは、銀鉱石と鉛あわせた含銀鉛を骨灰(動物の骨などを高温で熱して作った白い粉末)を塗った炉で熱し、鉛を取り除いて銀を取り出す方法です。

灰吹法を用いることで石見銀山の生産量は飛躍的に増大。日本屈指の銀山へと成長します。

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