【公家の姫】と【武家の姫】との違い
【姫】という語源は、古代において女性を指す言葉で「比売(ヒメ)」からきています。逆に男子の場合は「彦(ヒコ)」となるのです。日本の高貴な家柄といえば、皇室、公家、武家などのカテゴリーが挙げられますよね。それぞれの家に生まれた女性はすべて【姫】となりますが、その存在価値や暮らしぶりは全然違いました。まずは公家と武家の姫についてそれぞれ解説していきましょう。
とにかく貧乏だった公家の姫
室町時代の応仁の大乱で、戦火を受けて屋敷を焼け出された公家たちは無力そのものでした。公家にも領地があって、そこからの収入で生活を賄っていたのですが、武力を持たない公家たちは地方武士たちによって領地を横領され、貧乏そのものの生活を強いられていたのです。焼け野原の京都にいても仕事がないため、仕方なしに地方のツテを頼って下向する者もいたのですが、それすらもできない公家は、ひたすら京都にしがみついて食い繋ぐしかありませんでした。
位の高い五摂家クラスの姫ならば、皇后や朝廷の女官となることも出来ましたが、それ以下の公家の場合は、同じレベルの公家へ嫁がせるか、地方の戦国大名の正室として地方へ嫁がせるという選択肢しかありません。もっとも武家に嫁がせたほうが直接的な経済的支援も期待できますし、そのほうが現実的だったのかも知れません。
戦国大名に嫁いだ公家の姫といえば、武田信玄に嫁いだ三条の方、朝倉義景に嫁いだ近衛稙家の姫、大内義隆に嫁いだ万里小路貞子などが挙げられますね。
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家を保つために存在していた武家の姫
天下が麻の如く乱れていた戦国時代の中にあっては、いかに領土を保つかが鍵でした。「昨日の敵は今日の友」とばかりに共通の敵と対峙したり、同盟を結ぶことによって安全を保っていたのです。そこで家同士の結びつきを強めるために政略結婚が頻繁に行われていました。将来、嫁いだ自分の娘が男子を生んだ場合、その家に影響力を行使できるかも知れない。そういった深謀もあったことでしょう。
大名同士だけでなく、有力な重臣たちに娘を嫁がせるというパターンも多く見受けられますね。重臣といえども江戸時代とは全然違って、ちょっとした不満があるだけで反乱を起こすわけですから、うまく飼いならすために一門衆や同族としておく必要があったからです。
もちろん戦国の姫にも教養は不可欠で、礼法、和歌、茶道などができて当たり前でした。男子以上に女子にも能力が求められた時代だったのです。
姫の誕生~幼少期
姫が誕生すると、初夜の祝いのしきたりに従って、姫、生母、上臈、乳母などに引出物が進呈され、新生児のための御湯始(おゆはじめ)の儀式を執り行います。その後、胞衣おさめといって胎盤をきれいに酒と清水で洗い、壺に収めて埋める風習がありました。これは中世の穢れ(けがれ)思想に伴うもので、【出産=死】という思想が身近にあった当時の仏教思想からくるものだといえるでしょう。
もちろん出産後も、三夜、五夜と産後の行事は続き、姫の健やかなる発育を祈願します。当時は産んだ母親が姫を育てるのではなく、乳母がその役目を負っていました。乳母は主に家臣の妻女が担当しますが、独身の乳母も存在しており、養育とともに姫の教育も担っていたといえるでしょう。
そして3歳の頃には髪置(かみおき)の儀式(髪を伸ばし始める儀式)を行い、5歳の頃には帯解(おびとけ)の儀式(普通の帯を用い始める儀式)が行われます。この時に髪飾りや扇などをしつらえるのですが、これが現在の七五三の原型だとされているのですね。
姫の少女時代
幼い頃にすでに結婚相手が決まっている場合もありましたが、おおむね12~15歳の頃に嫁ぐのが一般的でした。当時の日本人の平均寿命が短いだけに、現在からみれば早婚の傾向が顕著だったといえるでしょう。それゆえに幼い頃からの教育や習い事は不可欠で、嫁ぐまでの10年足らずの間に、スパルタ的な詰め込み教育が必要だったということになりますね。
そうして武家の儀式や典礼などの有職故実を身に付け、和歌や茶道などの教養を学んだ姫は、いよいよ輿入れの日を迎えることになります。もちろん政略結婚ですから、見合い結婚や恋愛結婚などとは違い、嫁ぐまでは相手の顔も風貌も知る由もありません。
姫の結婚生活
姫の養育を担当した乳母は、共に嫁ぎ先へ同行し、そこで夫人となった姫の日常の世話を行います。淀殿の乳母だった大蔵卿局や、千姫の乳母だった刑部卿局などが歴史上名が知られていますね。
また輿入れの行列が豪華であったことも知られており、武田家から北条氏政へ嫁いだ黄梅院の行列には、なんと1万人もの人数が同行していたそうです。別の見方をすれば、そのような豪華な行列を組むことで、己の力の強さを誇示するという意味合いもありました。
輿入れしてからは、旦那様と仲良く暮らし、平穏無事な人生を送る姫もいましたし、そうでない姫もいました。黒田官兵衛や蒲生氏郷、吉川元春などは生涯一人の妻と仲睦まじく暮らしましたし、細川忠興の妻ガラシャや徳川家康の妻築山殿のように非業の死を遂げた姫たちもいました。
家のために嫁いだ妻ですから、子供を産むことが最優先されました。それでもせっかく嫡子が出来たとしても早世するのが珍しくない時代でしたから、正室自身が側室を推挙したりということもよくあったようです。といっても正室と側室の間には厳然たる格差がありましたから、いくら側室の子が先に生まれようと、正室が産んだ男子のほうが絶対的に優先だったのですね。実際には次男で生まれた徳川秀忠が跡継ぎになれたのも、そういった理由があったからに他なりません。
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