日本の歴史飛鳥時代

意外と知らない「中臣鎌足(藤原鎌足)」の生涯~大化の改新の後は何をしていた?

古代日本の大きな転換期となった7世紀半ば、大化の改新と呼ばれる大きな政治改革が行われたことは周知のとおりです。そしてこの大化の改新の中心人物、中臣鎌足の名前も「社会科の教科書の最初のほうに載っているのでよく覚えている」という方も多いのではないでしょうか。中大兄皇子とともに有力豪族に立ち向かい、国政を整備して日本の礎を築いた中臣鎌足。ただ、大化の改新前後の動向についてはよく知られていても、その生涯について語られる機会は少ないのではないでしょうか。大化の改新の後はどうしていたの?なぜ「藤原鎌足」と呼ばれることもあるの?今回の記事では、そんな中臣鎌足について詳しく掘り下げてみたいと思います。

大化の改新の立役者:中臣鎌足の生涯(1)

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中臣鎌足といえば大化の改新、というイメージが強いですが、もともと何をしていた人だったのでしょうか。残されている資料は少ないですが、まずは、中臣鎌足の生い立ちや若いころの職業などについて見ていくといたしましょう。

中臣鎌足の生い立ち:朝廷の重要役職の家に生まれる

中臣鎌足(なかとみのかまたり)は大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市のあたり)の生まれであるといわれています。

生まれは614年。日本最初の女性天皇・推古天皇統治の時代です。

生家である中臣氏(なかとみうじ)は神事などを司る、物部氏などと肩を並べる有力中央豪族でした。

子供のころから中国の兵法書「六韜」を暗唱するなど、大変優秀だったと伝わっています。

あるとき、遣隋使の一員として大陸へ渡り、30年余りの間、様々な学問をおさめた南淵請安(みなぶちのしょうあん)という人物が帰国後に塾を開校。その塾でトップの成績をおさめていたといわれているのが、中臣鎌足ともう一人、大化の改新の重要人物でもある蘇我入鹿(そがのいるか)でした。

この二人は子供のころからライバル関係にあったようです。

どんな時代?蘇我氏が幅を利かせていた飛鳥時代前半

中臣鎌足が少年期を過ごした時代の日本は、どのような状況にあったのでしょうか。

622年に聖徳太子が亡くなり、628年に推古天皇が崩御。天皇中心の世の中を作ろうとしていた聖徳太子の死によって、一時はおとなしくしていた蘇我氏が再び権勢をふるい始めます。

推古天皇は生前に後継を決めていなかったのです。

蘇我氏は中臣鎌足の学友にしてライバルでもある蘇我入鹿の実家。大臣(おおおみ:天皇の補佐役)の職を務める有力氏族です。当時は、入鹿の祖父にあたる蘇我馬子(そがのうまこ)が勢力を強めていました。

馬子とその息子の蝦夷(えみし)は、自分たちで天皇の後継を擁立して実権を握ろうと画策します。当時、天皇の候補となっていたのが、聖徳太子の血を引く山背大兄王(やましろのおおえのおう)と、もうひとり、田村皇子でした。

蘇我馬子と蝦夷は田村皇子を天皇の座につかせることに成功(舒明天皇・じょめいてんのう)。中央政権において強い力を持つようになります。

天皇より権力を持つ蘇我氏はもう好き放題。このままにしておくわけにはいかない。蘇我氏の横行を間近で見ていた中臣鎌足は、密かに「打倒蘇我氏」を計画していたと考えられています。

超サラブレッド・中大兄皇子との信頼関係

644年、30歳になった中臣鎌足は、中臣氏の家業である祭官の職に就くようすすめられますが、結局この職には就かず、一時期、摂津国(現在の大阪と兵庫の間あたり)に退いています。

蘇我氏に対抗するべく、次期天皇の候補を探すなど水面下で計画を進めていたようです。

鎌足が目を付けたのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。大化の改新のもう一人の中心人物であり、古代日本におけるスーパースターです。

中大兄皇子は626年生まれ。舒明天皇を父に持ち、母は舒明天皇の後を継いだ女性天皇として知られる皇極天皇(こうぎょくてんのう)という超サラブレッド。蘇我氏にないがしろにされる父・舒明天皇を間近で見ており、蘇我氏に嫌悪感を抱いていたとも伝わっています。

中大兄皇子は次男。後継争いとしては、母違いの兄・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の存在がありました。古人皇子の母は蘇我氏の血筋。当然、蘇我氏は皇極天皇の後継に古人皇子を推してくるに違いありません。これを阻止するには、古人皇子の異母兄弟でもある中大兄皇子が不可欠であると考えたのです。

この頃の蘇我氏は、中臣鎌足とは幼少期からライバル関係にあった蘇我入鹿が牛耳っていました。

大化の改新の立役者:中臣鎌足の生涯(2)

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これ以上、蘇我氏に好き勝手させてはいけない。再び天皇中心の体制を整えるべく、中臣鎌足は動き出します。手を組んだのは、次期天皇候補として申し分のない中大兄皇子。この後、古代日本最大の事変と改革が始まります。中臣鎌足のその後について、詳しく見ていくといたしましょう。

ライバル・蘇我入鹿暗殺!急転直下「乙巳の変」

中大兄皇子と親交を深め、着々と計画を進める中臣鎌足。そしてついにその時がやってきました。

皇極天皇4年(645年)、朝鮮半島から使者が来日。朝廷内で儀式が行われることになっていました。普段やりたい放題でろくに姿を見せない蘇我入鹿も、さすがにこの儀式には出席するはずです。

海外からの使者を迎え入れる儀式ということで、剣を外させる口実にもなります。中大兄皇子と中臣鎌足は、この日を蘇我入鹿暗殺の日と定めました。

朝鮮半島の使者を迎えた儀式自体が、蘇我氏を暗殺するために仕組まれたものだったのでは?との見方もあるそうです。

中大兄皇子と中臣鎌足は、他の同志たちとともに槍や弓矢で武装し、儀式の会場内の物陰に隠れます。

儀式が始まり、蘇我入鹿が宮廷内に入ると、門が閉ざされ、袋のネズミ状態に。しかしいざとなると、使命を帯びた同志たちは足がすくんで動けません。

このままでは何も起こらず儀式は終わってしまいます。ならば俺が!と立ち上がり、蘇我入鹿に襲い掛かったのは他でもない、中大兄皇子でした。

これを見た同志たち、気持ちを奮い立たせ、中大兄皇子の後に続きます。

そして見事、蘇我入鹿を暗殺。状況を察した父・蘇我蝦夷は自宅に火を放ち自殺したと伝わっています。

これが世にいう乙巳の変(いっしのへん)です。

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