アメリカの歴史独立後

アメリカ最大の内戦「南北戦争」背景・経緯・その後をわかりやすく解説

アメリカの歴史において、南北戦争はCivil Warといいます。市民同士の戦争、つまり内戦と表現されました。独立戦争での死者は12,000人、第一次世界大戦では112,000人、第二次世界大戦では322,000人です。それに対し、南北戦争は両軍あわせて60万人以上が戦死しました。アメリカ史上最大の内戦はどのようなものだったのでしょうか。南北戦争の背景・経緯・その後についてわかりやすく解説します。

南北戦争の背景

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1789年に独立したアメリカ合衆国は、建国当初から一致団結した国というわけではありませんでした。中央政府にあたる連邦政府の権限をどのくらいにすべきかをめぐって各州の意見が違っていたからです。さらに、工業中心と農業中心の南部の対立や奴隷をめぐる意見対立などもありました。南北戦争が起きた背景について探りましょう。

連邦派と反連邦派の対立

独立戦争が終わり、初代大統領のワシントンが退任すると国のありかたをめぐって連邦派と反連邦派の対立が表面化しました。連邦派は強い力を持った連邦政府の下、アメリカを中央集権的な国家にしヨーロッパ諸国との競争に勝つ商工業を育成するべきだと主張します。

対して、反連邦派は、中央政府による制限や統制を嫌い、各州の権利を認めるべきだと主張。南部や西部の開拓者たちは反連邦派を支持しました。1800年、3代大統領に反連邦派のジェファソンが当選すると連邦政府の権限を縮小します。この路線はマディソンモンローにも引き継がれアメリカは各州の力が強い国家となりました。

1832年、7代大統領ジャクソンを支持する人々が民主党を結成。州の自治を拡大する政策に賛同します。それに反対する人々は、のちに共和党を結成して対抗しました。

北部と南部の違い

19世紀半ば、アメリカの北部と南部は大きく異なっていました。北部諸州の基幹産業は商工業です。北部の産業資本家たちはアメリカの商工業を守るため、輸入品に関税をかける保護貿易を主張しました。

保護貿易の目的は安価なイギリス製品に関税をかけ、輸入を制限することでイギリスとの競争の勝とうとします。そのため、産業資本家たちは中央集権を志向する共和党を支持しました。北部の州は、黒人を購買力や自由がない奴隷のままにしておくよりも、労働者として工場で働き、商品を購入する消費者になって欲しいと考えます

一方、南部の基幹産業は農業。特に、綿花の輸出が重要な輸出産業となっていました。綿花の育成・収穫には安価な労働力がいります。低コストで働かせられる黒人奴隷の存在が必要不可欠でした。南部の農場主らは「自分たちの州のことは自分たちで決める」と考え、州の自治拡大を主張する民主党を支持したのです。

奴隷をめぐる南北対立

1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法には、黒人奴隷を禁止する条項がありませんでした。1807年、憲法制定時に保留とされていた奴隷貿易の禁止が定められ、1808年には実現します。

しかし、国内での奴隷制を禁じたわけではありません。そのため、黒人奴隷制はその後も存在し、密貿易も後を絶ちませんでした。奴隷に関して1820年、ミズーリ協定が制定されます。この協定はミズーリ州を奴隷州とするかわりに、北緯36度30分以北には奴隷州をつくらないとする協定でした。

しかし、民主党議員の提案で1854年に成立したカンザス=ネブラスカ法で奴隷を認めない自由州にするか、奴隷を認める奴隷州とするかは住民の意志で決まるとされ、ミズーリ協定は効力を失いました。また、1851年から52年にかけて、ストゥ夫人は『アンクル=トムの小屋』を執筆。黒人奴隷の置かれた状況を描いたこの小説によって、奴隷解放運動は高まりを見せました。

南北戦争の経緯

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政治的にも経済的にも南北の対立は激しさを増していきました。1860年の大統領選挙で共和党から出馬し、黒人奴隷制拡大に反対したリンカンが勝利します。これに反発した南部諸州がアメリカ連合国を結成。南北戦争の火ぶたが切って落とされました。戦いは1861年から65年までの長きにわたり、多くの犠牲者を出します。南北戦争の経緯についてまとめましょう。

リンカン(リンカーン)の大統領当選と南部諸州の離脱

のちに第16代大統領となるエイブラハム=リンカンはケンタッキー州の丸太小屋で生まれたといいます。彼は1834年にイリノイ州議会の議員に当選。その後、連邦下院議員となるも米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)に反対したため批判が集中し、一時、政界を退いたことがありました。

議員を辞めた後、リンカンは弁護士として10年間活動します。1856年、リンカンは政界復帰し共和党に入党しました。リンカンは1860年の大統領選挙で共和党候補として出馬。奴隷制拡大反対を訴えて大統領に当選しました。リンカンの当選は南部諸州を強く刺激します。

1861年2月、南部諸州はアメリカ連合国の発足を宣言し、首都をリッチモンドに置きジェファソン=デヴィスを大統領に選出しました。さらに、1861年4月、アメリカ連合国軍(以後、南軍)はアメリカ合衆国軍(以後、北軍)のサムター要塞を攻撃。ここに、南北戦争がはじまりました。

南北戦争の戦局の推移

南北戦争開始当初、経済力や人口の面で北軍が優勢でした。にもかかわらず、戦局は南軍優勢で推移します。その理由は、南軍の指揮官たちが有能だったからです。もっとも有名なのはリー将軍でしょう。

リー将軍は東部戦線の司令官で、南部の首都リッチモンドを何度も北軍の攻勢から救いました。リッチモンド防衛戦となった七日間の戦いやブルランの戦い、チャンセラーズヴィルの戦いで南軍が勝利。逆に、北部の主要都市であるボルティモアやフィラデルフィアに迫る勢いを見せます。

その一方、西部戦線では物量に勝る北軍が優位でした。特にグラント将軍率いる部隊は西部戦線で勝利を重ね、南部の中心へと肉薄。戦局全体では一進一退の攻防が続き、戦争は長期化します。

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