満州事変とリットン調査団
そして政府が見て見ぬふりをしていた満州では、1931年に関東軍と中国の衝突が起こり、満州事変に発展してしまいます。結果的に満州国という関東軍の傀儡政権が成立したのです。この満州事変と満州国の設立は日本の中国に対する侵略戦争であると中国が当時の国際連盟に訴えたことから、国際連盟はリットン調査団を派遣しました。
その結果、リットン調査団は満州国の設立は中国に対する侵略行為と認め、元に戻すべきであると報告したのです。それに対して、当時、国際連盟に全権大使として派遣されていた松岡洋右(ようすけ)は、それを拒否して1933年に国際連盟を脱退してしまいます。
この時点で、1920年代初めから続いてきた幣原喜重郎の協調外交はついに完全に破綻したのです。
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戦争に突き進む軍事政権
国際連盟脱退以降、日本は軍部政権か、軍部に忖度する政権が続くようになり、1937年の近衛内閣の時には、盧溝橋(ろこうきょう)事件で日本軍と中国軍の衝突事件が起こりました。そして、そのまま長い日中戦争へと突き進むことになってしまったのです。
1920年代の幣原喜重郎による協調外交によって一時的に平和な時代が実現しましたが、それは長続きせず、逆に軍部の不満の蓄積をもたらしました。陸海軍ともに不満が蓄積した結果、1930年代の陸軍の暴走を海軍は積極的に押さえようとしなくなってしまったのです。
山県有朋内閣の時に決めた軍部大臣現役武官制度を一時的に止めたのは、海軍出身の山本権兵衛内閣で、それまでは海軍は陸軍の暴走の歯止めになっていました。しかし、幣原外交の協調姿勢によって、海軍の軍艦建造を犠牲にしたために、海軍の抑止力が働かなくなってしまったと言えるのです。
その結果、1930年代からの長い戦争の道につながってしまいました。
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形だけの協調外交はいずれは瓦解する
このように、目先の平和を重視した幣原喜重郎の協調外交(片方では中国への強固姿勢)によって一時的な平和は実現しました。しかし、その裏では不満が蓄積し、それが世界恐慌という出来事をきっかけにして爆発したと言えます。
それは、第二次世界大戦後の米ソによる軍縮条約が破綻している現在につながるところがあると言えるのです。当時のアメリカもソ連も財政が破綻して核兵器による恐怖もあって軍縮に進んだのですが、あくまでも財政的な理由によって互いのバランスをとることが取り決めでした。本当に戦争を失くそうというものではなかったのです。それに対する両国軍部の不満が蓄積したと言えます。それに極端な右寄り政権ができたことによって、条約は一気に破綻してしまったのです。
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