銀閣を建てた足利義政ってどんな人?
銀閣を建てた室町幕府第8代将軍【足利義政(1436~1490年)】は、京都を焼け野原にした応仁の大乱の時期に将軍を務めていました。武家の棟梁でありながら都の洗練された文化に傾注していており、このおよそ戦乱の時代に似つかわしくない文化人は、いったいどのような人物だったのでしょうか。解き明かしていきたいと思います。
若くして将軍職を継ぎ、親政を目指す義政
1441年、父の6代将軍義教が臣下の赤松氏によって殺されます。足利将軍は元来権力基盤が弱く、有力守護大名の支えのもとに存在していましたから、義教は将軍権力の強化のため恐怖政治を敷いてしまったがために反逆されたのでした。後継者として義政の兄義勝が7代将軍となりますが、わずか9歳で亡くなり、その6年後に13歳で義政が8代将軍に就任したのです。
有力守護大名たちが幕政を牛耳り、勝手なふるまいをして戦乱が絶えない時代の中、義政はまず将軍親政を目指します。治安が良くなく不穏な動きのある関東には異母兄の足利政知を送り込み、武力強化のために奉公衆や奉行衆を整備し、権力基盤の確立に勤しんだのです。また大名たちの家督問題や争いにも積極的に介入し、政治の主導権を握ろうとしました。
応仁の乱が勃発し、政治に関心を失う
しかし、将軍権力を取り戻そうとする義政の思いとは裏腹に、世情の流れはそれを許しませんでした。恐妻として知られる日野富子や、義政の養育係であり執事でもあった伊勢貞親らの権力が大きく増し、政治にすら口を挟むようになったのです。さらに嫡子がいなかった義政は、わざわざ弟を還俗させてまで後継者として指名しますが、皮肉なことにその後、嫡男が誕生します。さらに有力守護大名同士の権力争いや、家督相続問題なども絡み、ついには応仁の大乱へ繋がっていったのでした。
11年続いた応仁の乱で京都の町は荒廃し焼け野原になりましたが、その間義政はどうしていたか?戦火を逃れて御土御門天皇と同居し、蹴鞠をしたり夜な夜な酒宴を開いていたとも伝わっており、政治にはまったく関心を失ってしまった上に、戦火に苦しむ民衆の怨嗟の声をよそに遊び惚けていたといいます。さらに御所が焼けると富子の屋敷へ移り、隠居後には東山へ移って山荘で暮らしました。この山荘こそが銀閣なのです。しかし、銀閣の完成を待たずして亡くなりました。享年55歳。
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なぜ東山に銀閣が建てられたのか?
義政が晩年に建て、移り住んだ東山山荘(銀閣)。彼はなぜ京都市街から遠く離れた山麓に銀閣を建てたのでしょうか?利便性が良い市街の中心地でも良かったのでは?実はそこには義政の思いと東山の地形が関連しているのです。
もともと東山は景勝地だった
京都の東側を南北に走る東山山塊。地図をよく見ると、まるで山麓にへばりつくように寺社がタテに並んでいますね。北から銀閣のある慈照寺、南禅寺、青蓮院門跡、知恩院、八坂神社、高台寺、清水寺、そして霊山護国神社。
実は宗教空間において山麓は、神や仏の常住する聖なる山と人界との間の「聖と俗の境界」として働いていて、このような山水と俗との対比などの自然観に基づいて、その場所(山麓)への意味付けがなされてきました。それを下敷きとして、日本人は山水を風景として鑑賞する見方を発達させ、このような宗教空間を景勝地化してきたのですね。お寺などでも「山号」といって、「〇〇山〇〇寺」というふうに表現しますが、この「山」こそが神や仏が常住する聖地なのです。
また、これらの寺社に共通して存在しているのが「庭園」で、敷地を取りまく地形を積極的に利用して奥行きの深い眺めや雄大な眺めを創出するなど、地形を積極的に活用する造景手法が見られます。またこの時代における枯山水との対比で、山塊と庭園とを空間的に融合させる技法が発達していったといえるでしょう。義政の建てた銀閣もまた、そういった意味で景勝の地に作られた俗世を離れた「境界」だったのです。
義政の身勝手な思いと吉田山
現在の銀閣の周囲には建物や樹木などがかなり密集しているためわかりにくいですが、義政在世中の頃は、銀閣の目の前に吉田山という小高い丘が見えていました。京都大学のすぐ東側にある吉田山は、吉田神社があったり、公園があったりなどで訪れる市民も多いのですが、実は義政の銀閣と深い関わり合いがあるのです。
吉田山は断層が横ずれした際に、上方向へ力が加わってできた丘だといわれており、この丘があるおかげで義政の頃は眺望があまり利かなかったことでしょう。ふつう山麓の山荘といえば見渡せる眺望が素晴らしいものですが、なぜ義政はそんな場所に山荘を建てたのでしょうか。
理由は、わざと京都市街が見えないようにしたことが挙げられるでしょう。山荘に移り住んだ時期は、ちょうど応仁の乱が終結して間もない頃。京都の街は復興途上でまだまだ焼け野原の状態で荒廃していました。山荘から街を眺めようにも、そんな荒廃した京都は美しくはない。だからわざと見えないようにしておけば、美しくないものを見ることもない。
ふつうの人間の感覚であれば、「自分が関わったがために起こった大乱のせいで多くの民衆が家を焼かれ、殺され、住む場所も失った。あまりに哀れで、そんな荒廃した街を見たくはない。」となるでしょう。しかし義政は違いました。苦しむ民衆のことなどまるで念頭にはなく、単に「美しくないから」という理由だけが存在していたのです。現に義政は、山荘建設のための費用として、苦しむ京都の庶民に重税を課し夫役を負担させており、もし、少しでも庶民に申し訳ないという思いがあるのであれば、そのような仕打ちはしなかったことでしょう。
花開く東山文化
苦しむ庶民のことを顧みず、ひたすら自分が追い求める「美」へ傾注していった足利義政。しかし、彼が求めた「美」は現在では大変評価され、義政を一級の文化人だとみる向きもあります。銀閣といった建築物もさることながら、工芸品や絵画、庭園などに至るまで、その文化的要素は純日本文化の源流ともいえるものでしょう。