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日本女子教育界のパイオニア「津田梅子」彼女の人生をわかりやすく解説!

2024年から日本の5,000円札の肖像が、「津田梅子(つだうめこ)」に変わる予定です。津田塾大学の創立者というのは有名ですが、どういう人生を送ったかを知っている方は少ないのでは?今回は、「津田梅子」の人生をひも解いてみたいと思います。

1.才女といわれる「津田梅子」の幼少期

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津田梅子(つだうめこ)は、「岩倉使節団」の一員としてアメリカ留学に参加した、日本女子最年少の留学生です。たった6歳の女の子が、11年も家族と離れて言葉の通じないアメリカで生活したなんて凄いと思いませんか?それでは、津田梅子の誕生から幼少期までを追ってみたいと思います。

1-1日本女子教育の先駆者「津田梅子」誕生

梅子は佐倉藩士の津田仙(つだせん)と初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現:東京都新宿区南町)で、元治元年12月3日(1864年12月31日)に生まれています。

攘夷が叫ばれていた頃で、津田家の安泰を願う父は男子の誕生を願っていました。でも、2番目も女の子で、仙はその子の顔も見ずに家を飛び出したとか。仙はお七夜を過ぎても名前を付けず、枕元にあった盆栽の梅が2、3ほころびていたのを見た初子が、「うめ(むめ)」と付けました。梅子の生まれた冬とは季節が異なる名前ですが、「うめ」という名が気に入っており、名前の由来についてよく聞いていたとか。明治35(1902)年に「梅子」と漢字に改名しています。

17歳でペリーの来航を経験した仙は、英語など外国語の修業をはじめました。梅子が2歳の時に福沢諭吉と共にアメリカ留学を経験します。キリスト教の洗礼を受けており、帰国後には同志社の創立者新島襄(にいじまじょう)や女子教育にも携わった教育家で啓蒙思想家の中村正直(なかむらまさなお)と、「キリスト教界の三傑」と称されました。また、仙は青山大学創立に関わっています。父仙の人生は、津田塾大学を創立した「梅子」の人生と似ているようですね!

1-2梅子の人生を変えたアメリカ留学

幕臣だった仙は、幕府崩壊と共に職を失います。でも、アメリカ留学経験を活かし外国人居留地の築地にある外国人用の宿泊施設を兼ねていた「ホテル館」に勤めることになり、一家で向島に移り住みました。約1年でホテルを辞めた仙は、北海道開拓使の嘱託として働きます。

開拓使次官の黒田清隆(くろだきよたか)が、アメリカ農務局長のキャプロンを顧問として招いたパーティーに、西洋農業の先達で英語が堪能だった仙が招かれました。岩倉具視や木戸孝允、板垣退助、大隈重信などの政府高官の中で、民間から唯一の招待客だったようです。ここで仙は、開拓事業の一環として女子留学生を募集することを耳にします。

アメリカ留学後から女性への意識が変わった仙は、妻に留守がちだった自分に変わって3歳の梅子に本を読ませるよう指示するほど、教育熱心になっていたのです。梅子も、父のスパルタともいえる教育を難なくこなすほどの才女でした。この時養女に出されていた姉琴子にも、里親に本を読む教育をするよう頼んでいます。

女子のアメリカ留学の話は、「人身御供」のようだと世間の目は冷ややかでした。でも、留学経験のある、仙は好意的だったのです。本当は、琴子が留学するはずでしたが、見知らぬアメリカにたった一人で行くのを嫌がったため梅子が留学しています。梅子は好奇心が強い子で、留学に対して心が躍る思いだったとか。アメリカからの最初の手紙に、「私だって、両親と離れるのはいやでしたが来たかったのです。」と書いていますが、この言葉は線で消されています。

 

2. 自分の希望で渡米した津田梅子の青春時代

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明治4(1871)年11月12日に、サンフランシスコに向かう「アメリカ丸」が横浜港から出港しました。この船には、岩倉具視はもちろん「岩倉使節団」の副使として参加した伊藤博文をはじめ、梅子ら女子留学生5人を含む107人が乗っていました。この日の横浜港には見送りの人も大勢押し寄せており、6歳の梅子を見て「可哀想に、あんな小さな子まで…。」という人もいたようです。

2-1アメリカに旅立った5人の少女

留学を計画した意図は、「アメリカやヨーロッパでは、女性も知識を付けて活躍している。これから日本が文明国として外国と対等に付き合うためには、日本女性にも本格的な教育を受けさせるべき。」というもの。選ばれた5人の留学期間は10年を予定していました。

日本初の女子留学生は、一番年上で16歳の上田梯(うえだてい)をはじめ5人でした。他は、14歳の吉益亮(よしますりょう)、11歳の山川捨松(やまかわすてまつ)、8歳の永井繁子(ながいしげこ)、最少年は6歳の津田梅子でした。彼女たちの共通点は、幕臣の家に生まれた明治維新の敗者の出ということ。留学は好条件で、旅費、学費、生活費全てを政府が負担し、奨学金として年間800ドルももらえたようです。

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