「天理教」が教える、人が助け合って生きていく陽気ぐらしの理念とは?
天理教を創始した【中山みき】
日本にある宗教法人といえば、仏教系や神道系などが主流ですが、天理教はどちらかといえば神道系にあたります。かつては神道本局に属していましたし、祭礼や儀礼なども基本的には神道に基づくものです。そんな天理教が産声を上げたのは幕末も近い頃。名もない家庭の主婦がその教祖となり、全国に大勢の信者を持つまでは決して平坦な道ではありませんでした。まずはその歴史を振り返っていきましょう。
神の天啓を受けて立教する
天理教の教祖(おやさま)は中山みきという女性でした。1798年、現在の天理市三昧田町に生まれ、わずか12歳で庄屋だった中山家に嫁ぎました。
嫁として、主婦として、申し分のない働きぶりだったらしく、また慈悲深い方でもあったようですね。ある時などは米を盗んだ泥棒を許したばかりか、逆に米を与えたり、ある時は物乞いの女性に衣食を恵むなど、情け深い振る舞いをされていたそうです。
1838年、長男の病気平癒のために、山伏に加持祈祷を頼んだところ、依坐(よりまし)という神霊のよりしろ役が不在でした。そこで、みきが代わりに依坐となるのですが、この時異変が起こります。
まるで別人になったかのように振る舞いが豹変し、神憑きの状態になったのです。山伏が尋ねると、「我は天理王命(てんりおうのみこと)。みきの体を神の社として貰い受けたい。」と答えました。
神の御言葉とはいえ、家もあれば子供たちもいるわけで、夫は簡単には承諾しません。しかし、「聞き入れれば世界を救うが、承知しなければ家を滅ぼす。」という言葉に屈し、とうとう受け入れてしまったのです。
これ以降、親神(天理王命)のよりしろとなり、「月日のやしろ」に定まったみきは、「まずは貧に落ち切れ」という親神の思し召しのままに、貧しい人々へ施すために家財や田畑を売り払い、貧乏のどん底への道を辿ったのでした。家族の不信は増していきますが、それでもみきは信念を曲げませんでした。
生き神様として人々に慕われるみき
1853年に夫が亡くなると、「これを機に、これから世界のふしんに掛かる。」と言って、家の母屋を売り払い、末娘のこかんを布教のために大坂へ赴かせました。「ふしん」とは「普請」のことで、「建設する」「組み上げる」という意味があります。
こういった振る舞いは、親族をはじめ周囲の者たちから嘲笑や反感を買いますが、みきはどこ吹く風。さらに10年ほど貧乏のどん底を味わいましたが、常に明るく暮らし、時には食べるに事欠く中でも「水を飲めば水の味がする」と子供たちを励ましていたそうです。
やがて三女のはるが懐妊した時、安産を願うために「をびや許し」を施しました。をびや許しというのは、「母子ともに無事に出産が出来るよう、神様にお許し頂く事」を祈願するもので、これがキッカケとなって道が開けるようになったのです。
祈願するだけで安産できると聞いた人々は、大変ありがたく思い、みきのをびや許しは大変な評判となりました。そして徐々に彼女を生き神様として慕う人々も増えていったのでした。
「これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず、腹帯もせんでよいで。」
引用元 「稿本天理教教祖伝逸話篇」より
1864年頃には、「つとめ場所」が建築され、みきは信者たちに「つとめ」を教授していきました。「つとめ」とは仏教でいう「お勤め」のこと。しかし天理教では、親神からの守護を得るための祭儀として行われました。
簡単に覚えられて誰にでもできる「てをどり」のお歌と手振りを教え、「おふでさき」という親神の教えをまとめた教典をもって、つとめ完成への道筋を信者たちに示しました。
教祖中山みきの死
やがて明治となり、みきを慕う信者はますます増えていくことになりました。現在の天理教教会本部がある場所を「ぢば」と定め、礼拝のシンボルともいえる「かんろだい」を建て、人々に教義を指し示しながら、助け合いの精神をも教示したのです。
しかし、既存の宗教勢力との軋轢を生むような動きは、当時の公権力から警戒され、迫害されていくようになります。みき自身も、十数度にわたっての警察からの取り締まりや監獄へ収監されるなど、相当な苦労があったようですね。
そんな中でもみきは、「ふしから芽が出る」と言っては、かえっていそいそと監獄へ出掛けて行ったばかりか、獄中にあっても、平生といささかも変わることなく過ごしていたそう。
1887年、みきは90歳という長寿を全うしました。その後、独自の教会を作ることもできないまま神道本局の管轄に置かれましたが、孫の代となった1908年、ようやく天理教教庁として独立を果たしたのです。
国家権力に屈した昭和の時代と、その後の隆盛
時代が昭和を迎え、日本が戦争の道へと歩もうとしていた頃、天理教は再び苦難に行き当たることになりました。天皇を頂点とする国家神道しか認めないという風潮が高まり、公権力による弾圧が活発化したからです。大本教のように治安維持法を盾にして検挙される宗教団体も現われ、天理教も危機感を抱きました。
これまで通り、独立独歩で教団を存続させていくか?それとも国家に迎合してやり方を変えていくのか?天理教が出した答えは後者でした。教義や祭儀の内容を大幅に削除し、より国家神道に近いものに改変したのです。そこまでしなければ教団の存続ができなかったということなのですね。
国家が大戦争へ突入していく中、教団存続のために積極的に戦争に協力していく天理教。資材や労働者を自発的に供出し、かつて中山みきが説いた「皆が助け合いながら生きる陽気ぐらし」という理念は影を潜めていきました。これもゆくゆくは本来の教えを取り戻すための苦渋の決断だったのかも知れません。
やがて終戦。国家からの統制から脱却した天理教は、すぐさま削除していた教義を復活させ、再び本来のあるべき姿を取り戻したのです。
信者数は1966年頃に頂点を迎え、500万人を上回っていたとも。現在は200万人ほどらしいのですが、それでも影響力のある教団であることに変わりはありません。
天理教はどんな宗教?すぐ身に付く用語集
小難しい教義の説明をするのは筆者は不得手ですので、天理教で頻繁に使われる言葉について、意味を解説していきましょう。一つ一つの言葉に深い意味があり、それを学ぶことで、いったいどんな宗教なのかが理解できると思います。
人間が明るく暮らす【陽気ぐらし】
この世の始まりは、まるで泥海のようで混沌としており、それをつまらなく思った神が人間を創造しました。すると人間は明るく楽しく暮らしはじめ、それをご覧になった神は、たいそう喜びました。
天理教教典にある「元の理」にあるお話なのですが、人間は神を喜ばせるために明るく陽気に暮らすことで、守護や恩恵を得ますし、神様はそんな人間の明るく暮らす様子を見て楽しみ満足する。そんなウィンウィンの関係にあることがわかりますね。
人間を創った親神(天理王命)を悲しませるような争いや諍いは起こしてはならない。だから「人間は仲良く助け合わねばならない」ということなのです。