ドイツヨーロッパの歴史

ドイツ世界遺産「ケルン大聖堂」を古都ケルンの歴史と共にわかりやすく解説

ドイツ西部のノルトライン=ヴェストファーレン州の州都で、ドイツ第四の都市であるケルンはルール工業地帯最大の都市であると同時に、ケルン大聖堂がある街として知られています。古代に建設されたケルンは中世になるとドイツを中心につくられた神聖ローマ帝国内の都市として発展しました。今回はケルンの歴史と世界遺産ケルン大聖堂についてまとめます。

ゲルマン人やローマ人が支配した古代のケルン

image by PIXTA / 50684431

ローマ帝国が領土を拡大していたころ、ケルンを含むゲルマニアはゲルマン人の支配下にありました。ローマ帝国がゲルマニアに領土を拡大した時、ケルンはゲルマニア=インフェリオル州の州都として建設。ケルンにローマ軍団の司令部が置かれたため、現代でもローマ帝国時代の遺物が多数出土します。

ローマ帝国時代のゲルマニア

ゲルマン人とはスカンディナビア半島からバルト海・北海沿岸に住み、農耕や牧畜を営んでいた人々のことです。ゲルマン人の住む土地をゲルマニアといいました。西はライン川、南はドナウ川に囲まれた地域がゲルマニアとされます。

紀元前1世紀、ローマのカエサルが現在のフランスにあたるガリアに遠征した時、ガリア人に脅威を与えていたゲルマン人とも戦いました。

カエサルの後を継いだアウグストゥスは、ゲルマニアを征服しようとしますが、トイトブルクの森の戦いで敗北。ローマ帝国はゲルマニアの征服をあきらめ、ライン川に防衛線を敷きました。

ローマ時代の歴史家タキトゥスは『ゲルマニア』と題する本の中で、当時のゲルマン人の生活の様子などを描きました。

ローマの支配と都市ケルンのはじまり

紀元前39年、親ローマ派のゲルマン人の部族であるウビイ族は、ローマ帝国の承認の元、ライン川の西岸に移住。入植地オッピドゥム=ウビオールム(ウビイ人の町)を建設しました。

紀元前50年、オッピドゥム=ウビオールムはローマ植民市に格上げされます。格上げを望んだ皇帝クラウディウスの妻の名にちなみ、コロニア=アグリッピネンシスと名付けられました。アグリッピナの植民市という意味ですが、後世にはアグリッピネンシスが省略されコロニアとだけ呼ばれるようになります。これが、ケルンの語源です。

同時期につくられたトリールとともに、ケルンはローマ軍団にとって重要な軍事基地とされました。その後、ケルンは新設された属州ゲルマニア=インフェリオルの州都とされ、地域の中心都市となります。

ローマ=ゲルマン博物館

ケルン大聖堂のすぐそばにあるローマ=ゲルマン博物館。大聖堂の広場に面しているため、比較的見つけやすい場所にある博物館です。この博物館は、ローマ帝国時代の遺跡の上につくられました。

1941年に防空壕を掘る作業中に発見されたディオニソス=モザイクがとても有名。ローマ帝国時代の邸宅のあとと考えられ、ディオニソス以外にもソクラテスやプラトンが描かれた哲学者のモザイクもあります。

博物館の中にはケルンで出土したローマ帝国時代の遺物が多数展示。中には、現在でも複製困難とされる精巧なガラス細工なども展示されています。ケルン大聖堂や近隣のルードヴィヒ美術館などと一緒にローマ=ゲルマン博物館を見てもいいかもしれませんね。

神聖ローマ帝国に属した中世のケルン

image by PIXTA / 53250003

ローマ帝国滅亡後、ケルンはフランク王国の支配下に入ります。ケルンはゲルマニア周辺では比較的早くキリスト教が伝播した街で、4世紀には司教座がおかれました。その後、東フランク王国を中心に成立した神聖ローマ帝国に属するようになると、ケルンを支配したケルン大司教は皇帝選挙の投票権を持つほど強い影響力を持ちます。と同時に、ケルンは交通の要衝であることを活かして商業都市としても発達しました。

次のページを読む
1 2 3
Share: