イギリスヨーロッパの歴史

大英帝国絶頂期に君臨した「ヴィクトリア女王」その生涯やヴィクトリア朝の政治を元予備校講師がわかりやすく解説

19世紀後半、産業革命を達成し世界各地に植民地を所有するイギリスは繁栄の極みにありました。絶頂期の英国の女王として君臨したのがヴィクトリア女王。夫であるドイツ人のアルバートの死後、ヴィクトリアは喪服で過ごします。治世後半にはグラッドストンとディズレーリという傑出した政治家が活躍し、大英帝国の繁栄を確たるものにしました。今回は、19世紀後半の大英帝国絶頂期に君臨したヴィクトリア女王とその時代について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

ヴィクトリアの生い立ちと女王としての即位

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ナポレオン戦争が終わり、ヨーロッパが落ち着きを取り戻しつつあった1819年、ヴィクトリアはイギリス王室の一員として生まれました。少女時代のヴィクトリアは有力な王位継承権者とみなされるようになります。叔父たちや父が次々と亡くなり、ヴィクトリアの王位継承順位は徐々に上昇。1837年、大英帝国ハノーヴァー朝の第6代国王に即位します。

ヴィクトリアの誕生

1819年5月24日、ジョージ3世の第四王子であるケント公エドワードと妻のヴィクトリアの間に一人の女子が生まれました。彼女の名はケント公の兄で摂政王太子となっていたジョージによって「アレクサンドリナ=ヴィクトリア」と名付けられました。

ヴィクトリアが生まれた8か月後、父であるケント公が死去します。同じころ、国王ジョージ3世が死去し、摂政王太子がジョージ4として即位しました。夫を失ったケント公妃はケンジントン宮殿でヴィクトリアをそだてることになります。

ジョージ4世をはじめとし、ハノーヴァー朝の王子たちには後継者となる子供たちがいなかったため、ヴィクトリアは早い段階から有力な皇位継承権者とみなされていました

ヴィクトリア自身もそれは意識していたようで、国王がヴィクトリアに「軍楽隊に弾かせる曲は何が良いか」と尋ねたところ、イギリス国歌である「神よ、国王陛下を守り給え」をリクエストしたといいます。

少女時代のヴィクトリア

1830年、ジョージ4世が跡継ぎをもうけないまま死去しました。これにより、ジョージ4世の弟がウィリアム4として即位します。即位した時、ウィリアム4世は既に高齢で、新たな跡継ぎの誕生が期待できないことから、継承権第2位となっていたヴィクトリアの即位が確実視されていました。

イギリス議会はヴィクトリアを「暫定王位継承者」に認定します。ヴィクトリアの母であるケント公妃は、あたかも新国王の摂政であるかのようにふるまい、旅行先で国王と同じ礼遇を要求したため、ウィリアム4世はそれを禁じる勅令を急いで出したほどでした。

少女時代のヴィクトリアは母親と同じ宮殿に住んでいたため、母親であるケント公妃の意向を無視することはできません。ウィリアム4世は年金を増額するので独立してはどうかとヴィクトリアに勧めましたが、母の反対でとん挫します。

大英帝国の女王に即位

1837年6月20日、ウィリアム4世はウィンザー城で死去しました。これにより、ヴィクトリアが新国王として即位します。女王となったヴィクトリアは、ケンジントン宮殿で最初の枢密院会議を招集しました。

このとき、列席した人々は女王の優雅な物腰や堂々とした勅語に驚きます。ナポレオン戦争でイギリスを勝利に導いたウェリントン公爵は、貴族のラッセル卿らは女王の様子に感嘆を禁じえませんでした。

即位前まで、母親のケント公妃の強い影響下にありましたが、即位後は同じ宮殿に住んでいても母親とは離れた部屋で過ごします。また、公的な会見では母親を同席させず、一人で公務を行いました。ヴィクトリアは首相のメルバーン子爵に引き続き政権を担当するよう命じます。

ヴィクトリア朝の始まり

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1837年のヴィクトリア女王の即位から1901年の女王の死までの時代をヴィクトリア朝といいます。若いころは、立憲君主としての資質を問われる寝室女官事件などを引き起こしたヴィクトリアでしたが、アルバート公子と結婚してからは安定した君主振りを見せました。ヴィクトリアの時代、大英帝国は経済的に急成長を遂げ、自由貿易体制が確立します。ロンドン万博はイギリスの栄光を世界に見せ付ける場となりました。

寝室女官事件

ヴィクトリアは即位当初から首相だったホイッグ党メルバーン子爵を信任していました。そのためか、メルバーン子爵はヴィクトリアの日記にたびたび登場します。

1839年、議会で審議されたジャマイカ関連の法案で、僅差での可決となったことからメルバーン子爵は自分の議会での力が衰えたと感じ、ヴィクトリアに辞意を伝えました。

メルバーン子爵が推薦したのはナポレオン戦争の英雄であるウェリントン公爵。しかし、公爵が辞退した為、後任は保守党ピールとなりました。

首相の大命を受けたピールは寝室女官をはじめとする宮廷人事にも着手。ヴィクトリアの側近となっていたホイッグ党の関係者を交代させようとします。

このことに、ヴィクトリアが激しく反発しました。ヴィクトリアとピールの対立は、ピールに首相辞退につながります。やむなく、メルバーン子爵が首相を続投することになりました。

アルバート公子との結婚

女王に即したヴィクトリアのもとに、縁談が舞い込みました。相手はドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公国の王子であるアルバート。アルバートの父やヴィクトリアの母であるケント公妃、公妃の弟であるベルギー国王レオポルド1世が縁談を積極的に進めました。

最初は、周囲が縁談を押し付けてくるかのように感じて消極的なヴィクトリアでしたが、眉目秀麗なアルバートと会うや否やすっかり気に入ってしまいます。1840年、ヴィクトリアはアルバート公子と結婚しました。

結婚から4か月後の6月、ヴィクトリア夫妻が馬車で移動中に沿道から狙撃される事件が発生します。この時、アルバートはヴィクトリアを引き倒して、身を挺して彼女を守りました。外国人だとして敬遠されていたアルバートは、この事件をきっかけに、徐々にイギリスという国になじんでいきます。

また、アルバートはメルバーン子爵への依存が強いヴィクトリアに対し、政治的に中立であるべきだと諫めました。こうした姿勢も、議会中心のイギリスの風土に合っていたのでしょうね。

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