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あのローマ帝国に平和と繁栄をもたらした「五賢帝」とは?わかりやすく解説

五賢帝とは、古代ローマ帝国最盛期に在位したネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの5人の皇帝のこと。紀元後1世紀からおよそ80年ほどの間、世襲ではなく有能な者が後継者に選ばれ、皇帝に即位していた時代がありました。五賢帝はそれぞれ立派な功績を残し、この地にパクス・ローマーナ(ローマの平和)と呼ばれる繁栄期をもたらしたのです。賢帝たちは強大な国家をどのように治めていったのでしょうか。ローマ帝国の「五賢帝時代」の全容を明らかにしてまいりましょう。

人類が最も幸福だった「五賢帝時代」を築いた5人の皇帝たち

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ローマは長い歴史を持つ都市です。紀元前6世紀末頃から数百年間、王政ではなく共和政を貫きながら領土を広げ勢力を伸ばしてきましたが、紀元前2世紀半ば頃に内乱が激化。共和政を退け、紀元後に変わるころに元首政(帝政)体制が始まります。「五賢帝時代」とはこののち、紀元後96年から180年の間のこと。激動の時代を潜り抜けたローマに平和をもたらした五賢帝とはどんな人物だったのでしょうか。ひとりひとり詳しく解説します。

(1)【ネルウァ】混乱を鎮め五賢帝時代の礎を築いた

マルクス・コッケイウス・ネルウァは、紀元前63年に始まった帝政ローマの初代皇帝から数えて12代目にあたる皇帝です。ネルウァから数えて7人の皇帝を「ネルウァ=アントニヌス朝」と呼んでいます。

ネルウァの即位期間は96年9月18日~98年1月27日。即位時、65歳を超えていたのだそうで、最期は病に倒れ病熱でこの世を去っています。2年未満という大変短い期間でしたが、五賢帝時代の礎を築いた皇帝として高く評価されているのです。

ネルウァ即位直前のローマ帝国は皇帝の強引な独裁や権力争いが続いて大変混乱していました。もともと彼はローマ帝国の執政官の職に就いていましたが、先の皇帝ドミティアヌス帝が敵対勢力に暗殺されてしまうのです。大混乱の中、元老院(古代ローマの統治機関)はネルウァを皇帝に推挙します。

なぜネルウァが皇帝に推挙されたのかについては、後の世の歴史家たちの間でも意見が分かれるようですが、ローマの人々は既に、世襲による皇帝継承の限界を感じていたのかもしれません。混乱を鎮めるためにも、帝政ローマの役人の職を長く勤め元老院にも顔が利くネルウァは適任だったと考えてよさそうです。

ネルウァは短い在位期間中ながら、ドミティアヌス帝時代に傾いてしまった体制の立て直しに奔走します。元老院との良好な関係を保ちつつ財政を立て直し、数々の税免除の制度を作って民衆のを救済。自身の功績として後の世に残るような建造物や公共事業はほとんどなく、皇帝としての地位を確立するところまでは至りませんでした。

しかし、ドミティアヌス帝時代の悪政の修復を地道に行ったネルウァの存在があったからこそ、五賢帝時代が続いたのだという見方もあるようです。

(2)【トラヤヌス】属州出身ながらローマを最盛期に導いた元軍人

ネルウァには子供がいませんでしたが、トラヤヌスという人物と養子縁組を結んでいました。ネルウァは亡くなる前に、自分の後継にトラヤヌスを推挙します。元老院がこれを認め、トラヤヌスがネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝に即位。帝政ローマの初代皇帝から数えて13代目の皇帝です。

トラヤヌスの即位期間は98年1月28日から117年8月9日と伝わっています。

トラヤヌスはヒスパニア・バエティカ属州のイタリカという植民市(古代ローマの本国以外の領土)の出身でした。生粋のローマ人ではありますが、「属州初の皇帝」と特別な呼ばれ方をすることも多いです。

ネルウァは元老院や民衆から厚い支持を受けていましたが、軍隊からの信頼を得ることは叶いませんでした。そこで、帝政ローマをさらに強固なものにするべく、軍人出身者のトラヤヌスを皇帝に推挙したとも言われています。

トラヤヌスもネルウァと同様、ドミティアヌス帝時代の悪政の修復に奔走しました。ドミティアヌス帝が懐に入れていた私的財産をどんどん没収して政治資金に充て、数々の公共事業やインフラ整備にも従事します。

さらに軍人出身ということもあって、トラヤヌスはたびたび東方遠征に乗り出し、ナバテア王国や東の大国パルティアなど、現在の中東一帯にあった国々を次々に制圧。トラヤヌスの時代にローマ帝国の領土は最大に達するのです。

遠征が続いた晩年、トラヤヌスは体調を崩し、ほどなく病状が悪化してこの世を去ります。トラヤヌスは生前、養子縁組をしていたハドリアヌスを後継者として推挙していました。

(3)【ハドリアヌス】『テルマエ・ロマエ』 でお馴染みのあの皇帝

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ハドリアヌスはネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝。帝政ローマの初代皇帝から数えて14代目の皇帝です。

即位期間は117年8月11日から138年7月10日と伝わっています。

人気漫画 『テルマエ・ロマエ』 にも登場する、あの皇帝です。

ハドリアヌスもトラヤヌス同様、数々の功績を持つ軍人でした。戦場での実績は申し分なく、民衆からも軍隊からも厚い信頼を得ていたと伝わっています。皇帝即位直前はトラヤヌスから任命され、属州の統括や遠征軍の司令官をつとめていました。

そんな中トラヤヌスが逝去。ハドリアヌスは皇帝即位の命を書簡で知ったと伝わっています。

ハドリアヌスが即位した頃は、トラヤヌスが制圧した属州で反乱の気配が渦巻いていました。そんな時代的背景もあってか、ハドリアヌスの即位をよく思わない元老院議員もいたと伝わっています。過去の悪政を憂いでいたネルウァやトラヤヌスは、国内の敵対勢力の弾圧(主に処刑)を行わなかったと言われていますが、ハドリアヌスが皇帝に即位する前後には若干、敵対勢力の排除が行われたようです。

こうして皇帝の座についたハドリアヌスは、より強大になったローマ帝国の領土の統括を行う一方で、内政の整備や改革にも精力的に動きます。また、パンテオン神殿の再建など現代まで残るローマのランドマークに関する造営事業にも尽力しました。しかし全体的にみると、トラヤヌスが制圧した東方の属州(メソポタミア一帯)の反乱の制圧が主な業績となっているようです。

そんなハドリアヌスにも最期の時が訪れます。百戦錬磨の元軍人も、晩年は体調を崩しがちでした。養子縁組を結んでいたアントニヌスを皇帝に推挙し、逝去します。

(4)【アントニヌス・ピウス】温厚で穏やかな人格者

アントニヌスはネルウァ=アントニヌス朝の第4代目皇帝。帝政ローマの初代皇帝から数えて15代目の皇帝です。

即位期間は138年7月10日から161年3月7日と伝わっています。

ハドリアヌスはもともと、別の人物を後継者と決めていたのだそうです。しかしその人物はハドリアヌスが亡くなる少し前に死去。その後、アントニヌスを養子に迎え、後継として推挙しています。養子に迎えたとき、アントニヌスは既に51歳になっていました。

アントニヌスはアウレリウス氏という、古くから続く古代ローマ名門貴族の出身で、執政官を長くつとめ、元老院の信頼も厚い人物。非常に温厚で人格者であったと伝わっています。

先のハドリアヌスは時代背景も手伝って、若干、独裁的で横暴な雰囲気を持っていました。その反動もあって、アントニヌスの時代は非常に平和で「何も起きなかった」時代と呼ばれることが多いです。

また、アントニヌスが外地に出ることはなく、ローマのさらなる領地拡大には至りませんでした。しかし既存の属州による反乱の制圧には適時対処しており、大きな戦争や紛争を避けることはできていたようです。

とにかくアントニヌスが皇帝の座についていた23年間、ローマ帝国には平穏で静かな時が流れていました。

長きに渡り安寧の時をローマにもたらしたアントニヌスは、161年、熱病を患ってこの世を去ります。

(5)【マルクス・アウレリウス】敬虔で勤勉・努力の人

マルクス・アウレリウスはネルウァ=アントニヌス朝の第5代目皇帝。帝政ローマの初代皇帝から数えて16代目の皇帝です。正式にはマルクス・アウレリウス・アントニヌスという名前が残っており、先代と混同することが多いので単に「アウレリウス」と呼ばれることもあります。

即位期間は161年3月7日から180年3月17日です。

先のアントニヌスとは親戚関係にあり、名門アウレリウス一族の血を引くサラブレッドでもありました。さらに先々代のハドリアヌス帝にも大変気に入られていたとも。一説には、ハドリアヌスは最終的にはこのマルクス・アウレリウスを後継にしたかったがまだ10代で若かったため、つなぎ的な役割として先にアントニヌスを皇帝に推挙した、とも言われています。

それが事実なら、ハドリアヌスの思惑通りになった、ということでしょうか。

とにかくマルクス・アウレリウスは周囲の期待に応えて、学問に精通した立派な大人になりました。学問だけでなく政治や軍事にも明るく、哲学にも精通した努力家。地位や権力に溺れることなく、つつましい生活を続けていたのだそうです。

先のアントニヌスが高齢であったため、後期は皇帝の補佐をするまでになっていました。そんな背景もあって、アントニヌスの死後、実にスムーズに皇帝の座につきます。

マルクス・アウレリウスの時代は、周辺の地域に大きな変化が訪れた時代でもありました。ハドリアヌスが領土を広げたことにより手に入れた属州の反乱や大国パルティアとの争いなど、東方にも北方にも目を向けなければならない緊張した状況が続きます。敗北を喫することもありました。

ゲルマン系民族との争い「マルコマンニ戦争」では、自ら先頭に立って指揮をとります。しかし戦況は芳しくありません。アウレリウスは戦いの最中に体調を崩し、亡くなってしまうのです。


アウレリウスは亡くなる前に後継を推挙していました。自分の息子であるコンモドゥスです。生前彼は息子に数々の称号を与え、皇帝継承の意思を明らかにしていました。そのため、アウレリウスが亡くなった後、特に混乱することなく、若きコンモドゥスが第17代ローマ皇帝に即位したのです。

「五賢帝時代」はなぜ終わりを告げたのか?

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アウレリウスは自分の息子を後継にし、この後のローマ帝国は再び、内紛や内乱が続くこととなります。後の世の歴史家たちによる評価では、「五賢帝時代」はアウレリウスで終了。ローマは新たな時代を迎えます。ローマに平和と安定をもたらしたとされる「五賢帝時代」とは、いったい何だったのでしょうか。

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