ドイツヨーロッパの歴史

ドイツ世界遺産「ケルン大聖堂」を古都ケルンの歴史と共にわかりやすく解説

ケルンが属した神聖ローマ帝国とは

962年、東フランク王オットー1世が東方から侵入してきたマジャール人撃退しました。ローマ教皇はオットー1世の功績をたたえ、ローマ皇帝の帝冠を授けます。

オットーの戴冠によってはじまった神聖ローマ帝国は、主にドイツを支配領域としました。ケルンも神聖ローマ帝国の領土に含まれます。ドイツ王を兼ねる神聖ローマ皇帝は選挙によってえらばれました

13世紀中ごろ、ホーエンシュタウフェン家が断絶することで神聖ローマ皇帝が事実上空位となる大空位時代を迎えます。大空位時代は20年弱で終わりますが、その後も皇帝位は安定しません。

そこで1356年、カール4世金印勅書を定め、皇帝選挙権を持つ7選帝侯を決めます。ケルンを支配していたケルン大司教も7選帝侯の一員となりました。

皇帝を選ぶ権利を持つケルン大司教とは

ケルンにキリスト教の司教座がおかれたのは313年のことです。この年は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ勅令によってキリスト教を公認した年。ケルンはかなり早い段階からキリスト教が浸透していたことがわかります。

8世紀になるとケルンの司教座は大司教座に昇格。キリスト教世界での重要さが増します。ケルンの大司教はフランク王国の宮廷などで、王に助言するほどの影響力を持ちました。

ケルン大司教はケルン司教区の教会トップであると同時に、ケルンを中心とする地域の領主でもあります。ケルン大司教は領主であり高位聖職者という別格の存在でした。

ハンザ同盟の一員として繁栄した商業都市ケルン

宗教・文化の街として発展したケルンですが、商業都市としての顔も持ち合わせもっていました。中世ヨーロッパで経済活動が活発になると、ケルンはヨーロッパの東西南北を結ぶ重要な交易路が通る街となります。

中世後期になると、ケルンはハンザ同盟の一員となりました。ハンザ同盟とは、北ドイツの諸都市が加盟する都市同盟です。ハンザ同盟はバルト海沿岸の貿易を掌握します。

ライン川沿いにあったケルンは、ドイツ・フランスなどの内陸部と北海・バルト海の中間地点にあったため、ハンザ同盟にとっても重要な都市でした。

ケルン市民の経済力が強まると、市民とケルン大司教が対立し戦いとなります。結果は、市民たちの勝利となりケルン大司教はケルンへの立ち入りを禁止されました。

荘厳なるゴシック建築の傑作、世界遺産ケルン大聖堂

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ケルン中心部に今もそびえたつケルン大聖堂。ケルン市のシンボルであり、世界遺産でもある建物です。ケルン大聖堂は650年近くにわたって建設が続けられた珍しい建物でした。また、ケルン大聖堂はゴシック様式の傑作との呼び声が高く、歴史の教科書や観光案内でもしばしば取り上げられます。

ケルン大聖堂建設の歴史

ケルンに最初の大聖堂が作られたのは司教座がおかれた4世紀のことです。2代目の大聖堂は9世紀に完成。ケルンのシンボルとして多くの信者を集めました。

1248年に2代目の大聖堂が焼失すると、同じ年に三代目の建設工事が始まりました。建設は断続的に続けられましたが、16世紀の宗教改革などによって財源の確保が困難になり建設が中断され、二つあるべき塔が一つしかない状態が続きます。

工事が再開されたのは1842年のこと。19世紀前半のナポレオン戦争の影響でドイツでも民族主義が高揚。中世のゴシック様式で建てられたケルン大聖堂が注目され、建設途中だったもう一つの塔の完成が急がれました。

ドイツ帝国成立後の1880年、ケルン大聖堂が完成します。こうして、ケルン大聖堂は二つの美しい塔を持つ現在の姿になりました。

ケルン大聖堂のみどころ

ケルン大聖堂は中世のゴシック建築の傑作とされます。ゴシック建築は13~14世紀に西ヨーロッパに広がったキリスト教会の建築様式でした。ゴシック様式の特徴は先のとがった尖塔や大きな窓とステンドグラスなどです。

全体的に高さがある建築で、ステンドグラスから差し込む光で教会内部が満たされ、荘厳さと明るさを兼ね備えていました。

ケルン大聖堂には一風変わったステンドグラスがあります。通常、ステンドグラスには聖書の物語などが描かれているのですが、2007年にゲルハルト=リヒターによってデザインされたステンドグラスは人物や絵柄ではなく、カラーモザイクのような不思議なデザイン。伝統を重んじる従来のステンドグラスと、現代アートが共存する世界遺産というのはとても興味深いですね。

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