東ローマ帝国って何なの?
東ローマ帝国は紀元前1世紀から4世紀まで存在していたローマ帝国の東側が独立してできた帝国です。
初期の時代はローマ帝国復興のためにキリスト教の国教化に務めていき、イタリア半島など旧西ローマ帝国の領土まで回復することに成功しましたが、時代が経っていくとローマ教皇の対立やササン朝ペルシアやウマイヤ朝によって侵攻を受けていき、いつしかローマ帝国ではなく、ギリシアの帝国と変わっていきました。
そのため、東ローマ帝国は別名であるビザンツ帝国と呼ばれることもあります。
こちらの記事もおすすめ
東ローマ帝国の歴史
東ローマ帝国は4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたって領土を縮小しながらも存続していました。そんな長く存在していた東ローマ帝国はローマ帝国の後継者として活動していくようになるのでした。
ローマの東側として
東ローマ帝国の始まりをいつにするかは専門家の中で意見が一致しているというのが現状です。なぜかというと東ローマ帝国はもともと広大になりすぎたローマ帝国を複数の人が治めるために分割するために行ったのがそもそもの始まりであり、東ローマ帝国の領土圏時代は東ローマ帝国が成立する前から枠組みとして存在していたのでした。
現在ではコンスタンティヌス1世によってビザンティウム(後にコンスタンティノポリスへと改名)へ遷都した330年の説。ローマ帝国が完全に分離することとなった395年の説。西ローマ帝国が滅亡して東ローマが唯一のローマ帝国となった476年の説とさまざま。
ここでは東ローマ帝国が完全に分裂することになる395年を軸にして解説していきたいと思います。
ローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国の二つに分裂し、395年を最後に統一することはありませんでした。そし東ローマ帝国は領土を維持したままローマ帝国の後継としての地位を歩み始めることになるのです。
ローマ帝国の旧領回復へ
こうして分裂したローマ帝国の東側として君臨することになった東ローマ帝国。東ローマ帝国は異民族の侵攻を食い止めるためにコンスタンチノープルにテオドシウスの城壁を建築。この城壁が1453年の帝国滅亡までコンスタンチノープルの防御の役割を果たすことになります。
さらには西ローマ帝国の後にできた西ゴート王国と東ゴート王国に懐柔策をしていくことによって東ローマ帝国に異民族が侵攻していくことを食い止めたのです。
一方で西ローマ帝国はその後ゲルマン民族の大移動によってゲルマン民族が西ローマ帝国内に次々と侵入。476年にオドアケルによって滅亡することになりました。
オドアケルは東ローマ帝国には勝てないとあくまでもオドアケルは東ローマ帝国の君臣としての地位を保ち、それに次々と追従。オドアケルが亡くなった後も基本的には東ローマ帝国に従う形式がとられていました。
こちらの記事もおすすめ
ゲルマン民族の大移動_その理由は何だったのか – Rinto~凛と~
東西教会の分裂
ゼノン帝が亡くなった後アナスタシウス帝が即位することになりましたが、アナスタシウス帝は東ローマ帝国の国力を上げていきながら宗教に関しても関わっていくことになります。
当時、キリスト教は第一コンスタンティノポリス公会議によって三位一体説と呼ばれる父なる神・子なる神・聖霊なる神の三つが、それぞれ独立性を持ちながらも一つであるという教義を採用していました。
しかし、東ローマ帝国の方はというと単性論と呼ばれるキリスト教は人間として現れたことによって人と神が融合したという教義を採用していました。この考えを採用した一つの理由はギリシャを治めていため、ギリシャ的な考えが東ローマ帝国に広まっていたというのがあるのです。
この結果三位一体説を唱えている教会と単性論を主張している東ローマ帝国は対立。最終的には東ローマ帝国は破門されることとなってしまい、東西教会の分裂の第一歩となっていくのでした。
ユスティニアヌス帝の時代の黄金期
東ローマ帝国の初期の目標はローマ帝国を復活すること。西ローマ帝国の領土奪還のために専制君主制が維持されゲルマン民族に戦いを挑むようになっていくことになります。
ユスティニアヌス帝はニカの乱を鎮圧すると傭兵を主力とする部隊を派遣。ゲルマン人により奪われた旧ローマ帝国西半部の再征服を敢行しました。
まず、北アフリカのヴァンダル王国をヴァンダル戦争で滅ぼし、さらにはイタリア半島を支配していたイタリアの東ゴート王国を征服、さらに西ゴート王国からはイベリア半島の南端部をかすめとるなど東ローマ帝国の領土拡大を推し進めていき、最盛期のローマ帝国も出とはいかないもののローマ帝国の再現に成功したのです。
ユスティニアヌス帝の死後の転落
ユスティニアヌス大帝はさらにローマの古来の法律をまとめたりするなど文化的な事業を行なっていくのですが、これが原因で東ローマ帝国は極度の財政難に追い込まれてしまうことになります。
ユスティニアヌス大帝が行なった事業は確かに偉大なことでしたが、その裏では財政難が進んでおり、国内の財産はこの頃にはすっからかんだったそうです。
その後ユスティニアヌス大帝が亡くなると東ではササン朝ペルシアが侵攻を開始。この頃ササン朝ペルシアは全盛期を迎えており、少し斜陽となっていた東ローマ帝国は一気に窮地に追い込まれることになります。
さらには西側ではゲルマン民族の動きが活発化していきランゴバルド人によってイタリア半島の北側を分捕られることに。イタリア半島は南部では辛うじて保つことに成功しましたが、イタリア半島でも栄えている北側を取られたことは東ローマ帝国からしたら打撃としか言えませんでした。
その後イタリア半島北部とバルカン半島を失った東ローマ帝国でしたが、ササン朝との和睦も進んでいくと徐々に平和な時代が訪れつつありまひたが、それでも財政は破綻寸前。最後には軍隊のあつかいの低下があだとなってしまい、軍がたびたび反乱を起こしてしまう状態に突入。一度はローマ復興を成し遂げた東ローマ帝国はここから崩壊していくことになるのです。