日本の古都京都の知られざる歴史について解説!
信長・秀吉の京都造営
応仁の乱が終わって各地の守護大名が京都から帰っても京都の街は復興されることはありませんでした。応仁の乱によってそもそも将軍の地位は失墜してしまい、さらには天皇もその権威を失いかけている状態でしてこの頃京都では管領の細川氏が度々内紛を起こしている状態であったため、京都の復興どころではなかったのです。
そのため、応仁の乱からしばらくの間京都は放置されることになったのですがそんな京都を見事に復興させた人物がいました。それが織田信長と豊臣秀吉だったのです。
まず、信長なんですが、信長は1567年に上洛を果たすと将軍のために二条御所を建築。その周辺の街も復興されることになります。
また、秀吉なんですが、秀吉の方の復興はかなり大規模なものになり天正の地割といって元々120メートル間隔で置かれてきた南北の通りを南北60メートル間隔に変更。元々使われることがなかった空き地の土地をどんどん減らしていき、街を復興させていきます。さらに秀吉は応仁の乱によって区割りが曖昧であった京都の街を区別するために京都全体を囲む御土居を設置。焼失してした寺の復興、内裏の復興、そして聚楽第の建設など様々な改造が施され見事に京都は活気の溢れる京都へと復活を遂げることになったのでした。
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着倒れの街京都
秀吉によって京都の街が復興されると秀吉自身は聚楽第ではなく京都のちょっと南の外れにある伏見城に隠居するようになり、この地で亡くなってしまいました。そして時代は秀吉の時代から家康の時代に移り変わっていくことになるのですが、1603年に徳川家康が征夷大将軍へ任ぜられると元々徳川家の本拠地であった江戸に政治的権力が再び移行されることになり、再び京都は文化の中心地としての地位で落ち着くことになります。
しかし、この時江戸に全ての実権が移ったのではなく、ある程度の地位は保障されており京都を管轄するために京都所司代が置かれたり、二条城が建設されたりするなど徳川家が江戸を西国方面の本拠地にしていたことがわかりますね。
さらにこの頃になると京都は江戸、大坂に次ぐ3番目の大都市として知られることになり、最盛期には人口は50万人を突破したとか。
さらに、江戸時代での京都は西陣織などをはじめとする織物産業が発展。柳亭種彦の三都気質にて『江戸の呑み倒れ、大坂の食い倒れ、京都の着倒れ』と称されるなど着物を買いすぎて破産してしまうほどたくさんの着物があったそうです。
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幕末の舞台となった京都
さて、こうして京都は日本の一大都市として発展を遂げることになったのでしたが幕末に入ると京都の街は尊王攘夷の志士の本拠地となり倒幕運動の中心的な役割を果たすようになります。次は京都で行われた倒幕運動と明治維新についてみていきましょう。
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