平安時代日本の歴史

比叡山延暦寺を開き天台宗を修めた「最澄」稀代の名僧の生涯をわかりやすく解説

京都市中心部から見て北東、すなわち、鬼門にあたる場所に比叡山延暦寺があります。織田信長に焼打ちされたことでも有名な延暦寺は伝教大師最澄によって創建された天台宗の寺院でした。最澄は桓武天皇の知遇を得て中国に渡り、天台宗を日本で開いた名僧です。並び称される空海とともに平安時代の仏教をリードした最澄。その生涯をみてみましょう。

入唐前、修業に励む若き日の最澄

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近江国坂本周辺に生まれた最澄は、近江国分寺で出家し僧侶となりました。正式な僧侶となったのち、東大寺で具足戒を修め僧侶としての途を歩んだ最澄。最澄は奈良の諸寺院での修行ではなく比叡山にこもって山林修業に励みます。修行で評判を高めた最澄の噂は時の帝である桓武天皇の耳に届き、天皇に仕える内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)となりました。

生い立ちから僧侶になるまでの歩み

最澄は奈良時代後半の766年、または767年に近江国に生まれました。父は坂本周辺を治めていた三津首百枝(みつのおびとももえ)だとされます。最澄の俗名は広野といいました。なかなか子宝に恵まれなかった三津首夫妻が比叡山の神に祈ったのち、授かったのが広野です。夫妻にとっては待望の子宝だったことは想像に難くありませんね。

ちなみに、比叡山の神は日吉神社の神である大山咋神(おおやまくいのかみ)。全国にある日吉神社・日枝神社・山王神社の元締めです。広野は子供のころから勉学に励む優秀な子供でした。十二・三歳のころ、広野は両親譲りの神仏への深い信仰心から、僧侶の途を志します。そして、近江国分寺の行表(ぎょうひょう)に弟子入りし、最澄の名を与えられました。

国公認の僧侶となった最澄の活動

最澄は、行表のもとで一心に僧侶の修業に励みました。その後、最澄は奈良の都に上り、仏教のさらなる勉学に励みます。最澄が奈良に向かった目的は二つ。一つは、奈良の諸寺院がもつ仏教の書籍を読んで修業に励むため、もう一つは、僧侶として守るべき戒律である具足戒を修め、国家が公認する僧侶になるためでした。

奈良の諸寺院には遣唐使やそれ以前の人々が持ち帰った多くの仏教関連書籍があります。奈良の諸寺院は、いわば、仏教専門の大学でした。最澄は書物を読み、修業に励みつつ具足戒の修得をめざします。そして、785年、最澄は250もの戒律で構成される具足戒を修め、正式な国公認の僧侶となりました。

一般的には、奈良の諸寺院でさらなる修業と研究を行うのですが、最澄は奈良にとどまることなく故郷に帰ります。人里離れた場所で自分と向き合える環境を求めたのかもしれませんね。

比叡山上に一乗止観院を建て、修業に励む最澄

788年、最澄は比叡山に薬師如来を本尊とする一乗止観院を建てました。これは、大寺院ではなく草庵だったといいます。最澄は奈良の諸寺院での出世を捨て、比叡山の山懐で修業することを選びました。最澄が薬師如来の仏像の前にともした灯明は不滅の法灯とよばれ、今も比叡山根本中堂にともされているそうです。

比叡山での修行中、最澄は中国の仏教書に記された天台大師の教えに心を動かされました。そして、最澄は法華経を中心とする天台の教えを学びたいと強く思うようになりました。最澄のストイックな修業ぶりは都にまで届きます。

797年、最澄は桓武天皇の側近で病気平癒などを祈祷する内供奉十禅師に任じられ、天皇の信任を得ました。その間も、最澄の天台の教えに対する思いは募っていきます。

天台の教えを求め、危険を冒して入唐修業に励んだ最澄

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8世紀初頭、世界的に見て仏教の中心は中国でした。7世紀初頭の玄奘三蔵がもっとも有名ですが、それ以外の僧侶たちもインドから多くの仏典を中国に持ち帰り、中国では仏教の新たな進展が見られたのです。最澄が求めた天台の教えもその一つでした。また、当時最先端の仏教である密教も中国で発達していました。これら、最新の知識を得るためには自ら中国に渡る必要があったのです。

最澄以前の仏教と桓武天皇の政策転換

日本に仏教が流入したのは6世紀の飛鳥時代のことです。中国大陸や朝鮮半島からわたってきた渡来人が持ち込んだ仏教を、古代最大の豪族である蘇我氏や推古天皇の摂政として知られる聖徳太子らが保護したのがきっかけでした。

日本の仏教を飛躍的にレベルアップさせたのが鑑真です。鑑真は日本にたどり着くと、僧侶に必要な戒律を整えます。資格試験にあたる戒律を修めたものを僧侶とする仕組みを作ることで僧侶のレベルアップをはかりました。

また、聖武天皇のころには国ごとに国分寺や国分尼寺がおかれ、全国各地に寺院が建てられます。こうした国ぐるみの仏教政策は、僧侶と政治の距離が近くなる弊害も生んでいました。

最澄のころの天皇である桓武天皇は、奈良の諸寺院と距離を置く政策を実施し、都も平安京へと移してしまいます。立身出世の姿勢が目立つ僧侶たちの中で、最澄はストイックに修業に励んでいました。だからこそ、桓武天皇の目を引いたのかもしれませんね。

生存率50%?危険を伴う遣唐使の旅

最澄が生きた奈良時代の後半から平安時代の初期、中国にわたって勉学をすすめるためには遣唐使の一員になるしかありませんでした。遣唐使には中国の先進的な技術・制度・文化について学ぶために派遣された国費の留学生が多数同行します。

初期の遣唐使は朝鮮半島から山東半島へと渡る陸伝いのルートでした。しかし、朝鮮半島を統治する新羅と日本の関係が悪化してからは東シナ海を突っ切ったり、沖縄から東シナ海を渡るルートをとらざるを得ません。

沿岸から遠く離れた外洋を航海するのはとても危険でした。遣唐使船は4隻で構成されるのが通例で、和歌でも「よつのふね」と称されましたが、無事往復できるのは半数に過ぎなかったといいます。まさに、命がけの渡航でした。

唐が衰退し、学ぶことが少なくなると、遣唐使はリスクの方が大きくなります。そのため894年、菅原道真が遣唐使の廃止を進言し、途絶えてしまいました。

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