日本の歴史

日本の古都京都の知られざる歴史について解説!

保元の乱と平治の乱

平安時代も終わりにさしかかっていた1156年。この年に崇徳天皇と後白河天皇の間に後継者争いが発生。いわゆる保元の乱が起き一時期京都中が大混乱に陥ります。また、1160年に起こった平治の乱では平氏の本拠地があった六波羅付近で合戦が発生して平安時代の末期の様相を呈していきました。

平治の乱が終わった後平安京の支配は平清盛率いる平氏が行うことになったのですが、清盛は自身が天皇の外戚になると都を平安京から兵庫県にあった福原というところに遷都します。

まあ、この計画は一年ちょいで破綻することになったのですが、源氏と平氏の争いで平安京は荒廃するようになり、さらには1185年に源頼朝に守護・地頭を置くことを承認したことを受けてついに政治の実権が京都から鎌倉へと移転することになったのでした。

六波羅探題の設置

こうして政治の実権は鎌倉に移ることになるのですが、まだ幕府が開かれた当時は平安京でも一応朝廷による政治が行われていました。

しかし、1221年承久の乱が勃発して朝廷側が敗北すると幕府は京都の政治の実権も握るようになり六波羅に六波羅探題という朝廷の監視や西国の御家人の統率を行う機関を置いたのです。

こうして、ついに政治の実権は完全に鎌倉に移行。京都はしばらくの間文化都市としての道を歩んでいくことになったのでした。

室町幕府の設置と新しい文化

こうして政治的な権力を失ってしまった京都でしたが、鎌倉時代の間は鎌倉仏教の中心地などのように文化の中心地としての権威は引き続き持ち続けるようになります。

そして時代が降り1333年に六波羅探題が滅ぼされるとこの時幕府の倒幕を指揮してきた後醍醐天皇は京都にて天皇自ら政治を行うという建武の新政を開始。この政治は3年間ほど続いたのち終了しましたが、その後に続く室町幕府によって再び京都に政治的な権力が復活するようになりました。

そんな室町時代の京都を象徴するものといえばやはり足利義満が建立した金閣寺を始めとする北山文化でしょう。武家の文化と公家の文化を融合された北山文化は京都の街を活気づけて京都の街は商人や町人などが独自に収まるようになりました。こうして京都は再び日本の中心地としての役割を果たしていくようになったのですが、その一方で京都は内乱の中心にもなったのでした。

戦乱により荒廃した京の街

1467年。この年将軍の後継者争いや有力守護大名の衝突もあって細川勝元率いる東軍と山名宗全が率いる西軍が京都に集結。合計20万人の兵士が京都にて戦いに明け暮れるようになります。いわゆる応仁の乱の始まりです。この応仁の乱によって金閣寺や清水寺をはじめとした京都の名だたる寺が焼失。御所も焼き落ちてしまい京都の街はあわや全焼してしまうほどの被害を被ることになりました。

ちなみに、室町時代に入ると昔の平安京のようなしっかりとした条坊制ではなくなっており、上京と下京が別々になってそれを室町通が貫いている状態でした。

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