日本の歴史江戸時代

「征夷大将軍」はどんな役割だった?わかりやすく解説

征夷大将軍は、江戸幕府の徳川将軍としてご存じの方も多いと思います。最後の征夷大将軍はよく知られている徳川慶喜ですが、初期の征夷大将軍は日本史の授業で習っているはずですが、覚えている方は少ないようです。征夷大将軍はどのような役割だったのかについても、知っている方は少ないと言えます。この征夷大将軍について解説しましょう。

征夷大将軍とは_武家社会における統領か?

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征夷大将軍が日本の歴史上で初めて注目を集めたのは、奈良時代末期から平安時代初期の坂上田村麿が最初で、歴史の教科書にも載っています。

しかし、征夷大将軍としてよく知られているのは徳川将軍であり、徳川家康が拝命し、それ以降、15代にわたって徳川家の世襲で将軍職は続いていくのです。それは、15代将軍徳川慶喜が大政奉還するまで続きました。また、それ以前にも、鎌倉時代や室町時代にも天下を治める将軍は征夷大将軍であり、武家の統領だったのです。

初期の征夷大将軍は東夷を平定するのが役目だった

飛鳥時代以降に、大和朝廷の支配地域は、関東から東北地方にも伸びていきました。日本書紀には、古代の日本武尊の時代には、すでに関東地方の話が出ています。日本武尊は、3世紀中頃から後半の時代と推測されており、飛鳥時代の6~7世紀にはすでに東北地方にも進出していたのです。

しかし、当時の東北地方には、アイヌ民族らしき人たち(確定はされていません)が多く住んでいました。しかも寒く、冬には雪の多い地域だったために、簡単には支配することはできず、鎮東将軍、持節征夷将軍、征東大将軍などの名称で役人が派遣されていたのです。東北地方のアイヌの人たちは、東夷(アズマエビス)と呼ばれて、なかなか朝廷の役人の言うことを聞きませんでした。

なかなか東北の民たちが従わなかったために、奈良時代末(794年)に、ついに大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任じられ、東北地方の支配に本格的に取り組みます。すなわち、最初の征夷大将軍は、大伴弟麻呂だったのです。歴史の教科書では、坂上田村麻呂が有名なため目立っていますが、実際には、当初大伴弟麻呂の副将軍で、その後の2代目の征夷大将軍になっていました。

初めての征夷大将軍とその役割_大和朝廷と東北地方の関係

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征夷大将軍が設けられたのは、東北地方に進出して数百年が経過しているにも関わらず、大和朝廷に従おうとしない東夷と呼ばれたアイヌ民族がいたからです。初代の大伴弟麻呂は目立った成果を挙げることができず、副将軍(副使)であった坂上田村麻呂が改めて任命さました。坂上田村麻呂は、東北地方の陸奥国に進出して、胆沢城などのさまざまな砦を築き、東北地方の英雄と言われた阿弓流為(アテルイ)を降します。そして、彼を都に連れてきたことで勇名を馳せたのです。それによって、歴史的にも有名になりました。

しかし、この征夷大将軍は、田村麻呂の後には文屋綿麻呂が任命されていますが、以降は、平安時代末期の源頼朝まで任命されていません。もともと、征夷大将軍は、日本の東の地域を平定 (征討)する役目でしたから、東夷の人々が朝廷に服した結果、必要性がなくなったのです。

坂上田村麻呂の時代は、武士はまだいなかった

平安時代前半までは、貴族社会で、貴族と一般民衆と、その下に奴婢がいるだけでした。軍事力を持った武士層が形成され出したのは、平安貴族たちが荘園を持ち、優雅に暮らした平安時代中盤過ぎからです。武士が現れるのは、清和天皇の子孫である源氏や桓武天皇の子孫であった平氏が地方の荘園に下り、荘園を守る武士層になっていった以降でした。彼らは、貴族の荘園の用心棒をしたり、年貢を集めることで、武力と地方での権力を握り、地方におおける勢力となっていったのです。

平泉の藤原三代もアイヌ民族と言われたが

平安時代後半に、東北地方の支配者に奥州藤原氏がいました。現在でも平泉の中尊寺に見られるように、黄金をふんだんに使った高い水準の文化を築いていたのです。源義経が京都の鞍馬寺を逃げ出した先がこの平泉の藤原氏でした。また、義経が兄の頼朝に追討された時に落ち延びた先もやはり平泉の藤原氏だったのです。

この藤原氏は当時の東北地方を支配しており、アイヌ民族ではなかったかと言われてきました。しかし、近代になってDNA鑑定が行われた結果、アイヌ民族ではなかったことが証明されています。

ただ、この藤原氏は、京の都とは一線を画して、独自の発展を遂げており、俗に言われる関東武士としての東夷ではありませんでした。古い時代のこの地域にいた阿弖流為などに通じる人たちであったと言われています。藤原氏がアイヌ民族でなかったということは、坂ノ上田村麻呂が連れてきた阿弓流夷ももしかするとアイヌ民族ではなかったのかもしれません。

いずれにしても、平安時代後半まで、東北地方は特殊な地域であったことは事実でしょう。

 

武家の時代の到来によって征夷大将軍の役割が変わる

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平安時代中盤を過ぎますと、各地で武士が地頭と呼ばれて貴族の荘園を守り、年貢を集める地方で権力を持った存在として台頭してきます。しかし、まだその段階では、武士は組織化されておらず、それぞれ個別に活動をしていました。そのような状況を変えたのが、清和源氏の流れをくむ源義家(八幡太郎義家)だったのです。

彼は、父と一緒に東北地方の争い(前九年の役)を平定して朝廷から認められ、関東に陸奥守として派遣されます。そして、再び起こった後三年の役でも活躍しました。清和天皇の末裔であり、その武人としての強さで関東の武士たちの支持を得ることに成功し、武家の統領としての源氏を確立します。関東に地盤を築いたのです。それまで、関東で平将門が傍若無人に暴れて追放されたことで、関東にいた平氏は西国に移っていました。

その平氏は、その後西国の水軍と結び付き、桓武天皇の末裔ということで、もう一方の武家の統領としての立場を確立していきます。すなわち、平安時代中期に台頭してきた武士層は、源氏と平氏に二分されて組織化されたのです。すなわち、二つの軍隊グループができたと言えます。

平氏の横暴と後白河法皇の院宣

そして平安時代末期には、源平合戦と言われるように、武家社会の統領の座をかけて争うことになります。最初は、平清盛の平氏が源義朝の源氏を破り、優勢でした。平清盛は、朝廷において出世し、右大臣になり、さらに朝廷を支配しようとして、後白河法皇と対立し、後白河法皇を幽閉してしました。この状況を憂いた後白河法皇の息子の以仁親王は法皇の院宣を各地の武士、特に源氏の流れを汲む武士たちに送り、平氏を討つように働きかけます。これに最初に応じたのが、源義仲、木曽義仲だったのです。源頼朝はまだ関東で人質の立場を脱して、武士たちを集めていたところであり、平氏追討はできませんでした。

しかし、平氏を都から追い出した木曽義仲が、天狗になり、都で傍若無人の行動をしたことから、後白河法皇は改めて、源頼朝に木曽義仲の追討の院宣を出します。その当時には、関東武士たちは頼朝の元に集まっており、弟の義経も奥州から馳せ参じていました。そして、義経を総大将とする追討軍が編成され、木曽義仲を都から追い出し、木曽義仲を討つことに成功します。そして、さらに西国に逃げて勢力の回復を図った平氏をも追討して、ついに平氏を関門海峡の壇之浦に追い詰め、平氏一門を滅亡させるのです。

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