平安時代日本の歴史

武士たちの尊崇を集めた鶴岡八幡宮の歴史とは?~文化財と見どころもご紹介~

JR鎌倉駅に降り立ち、若宮大路を真っすぐ進むとひときわ大きな赤鳥居が見えてきます。これが鶴岡八幡宮の二の鳥居。さらにしばらく参道を歩くと今度は一の鳥居とともに境内へと至ります。休日ともなれば観光客で賑わう鎌倉屈指の観光名所なのですが、実はこの鶴岡八幡宮がかつて関東の武士たちの尊崇を集めた由緒ある神社であることは、実は知らない人も多いのです。そこで鶴岡八幡宮の波乱の歴史とともに、なぜ武士たちの尊崇を集めるに至ったのか?解説してみたいと思います。合わせて、境内に残る文化財や名所などもご紹介していきますね。

源氏ゆかりの鶴岡八幡宮の歴史

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鶴岡八幡宮は、石清水八幡宮、宇佐神宮(場合によっては筥崎宮も含む)と並ぶ日本三大八幡宮とも称されています。全国の神社で最も数が多い八幡社の中でも、非常に知名度が高い存在だといってもいいでしょう。その歴史のはじめは平安時代後期にまでさかのぼりますが、まさに武門の守護神としての役割を持ったものでした。

石清水八幡宮の分社として創建される

鶴岡八幡宮のお話をさせて頂く前に、まず源氏のことについて説明しますね。源氏は初めから関東で興ったわけではなく、実は現在の大阪府~兵庫県にかけての地域で武士団として発生しました。摂津源氏河内源氏の二系統が有名なのですが、河内源氏のほうは京都での有力公家とのツテがあまりなく、東国など遠方の受領(地方の行政官)となっていたために、どうしても地方でなければ活躍の場がなかったからです。

1062年、その河内源氏の二代目【源頼義】が、反乱を起こした東北地方の豪族安倍氏を討つために京都の石清水八幡宮へ戦勝祈願を行いました。前九年の役と呼ばれた戦いは、苦戦のあげく官軍の勝利に終わり、そのお礼のために石清水八幡宮から勧請(祭神を分祀すること)を受けて、現在の鎌倉由比ガ浜のあたりに分社を創建しました。これが鶴岡八幡宮の歴史の始まりだったのです。

源頼朝によって遷座され、武家の守り神となる

1180年、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げました。石橋山の戦いのあと房総半島へ逃れたのちに味方を募って鎌倉へ入ります。その際に由比若宮と呼んでいた分社を約2キロ離れた現在地に移したのです。頼朝は、社殿の周囲に行政機構を整えるべく重臣の屋敷などを区割りし、鎌倉幕府の基礎を築きました。現在でも畠山重忠や北条時房、藤原久時などの屋敷跡に石碑や案内板が建てられていますね。

火事で焼失したあと、1191年に改めて石清水八幡宮の勧請を受け、さらに1208年、本尊を薬師如来とする神宮寺も創建され、現在のような形となっています。

鶴岡八幡宮は鎌倉時代を通じて、火災や津波などで被災するものの鎌倉幕府の援助をもって再建されてきました。まさに武家の守り神として崇められていたのですね。

一時は衰退するものの鎌倉公方の支援を受ける

しかし、後ろ盾であり経済的パトロンだった鎌倉幕府が滅ぼされ、鶴岡八幡宮はそこから衰退した時期もありました。しかし、次に政権を握った足利氏もまた源氏だったのです。

足利尊氏は土地を積極的に寄進し、歴代の鎌倉公方は鶴岡八幡宮を尊崇して非常に関係が深かったといわれています。その中でも京都の幕府と対立し永享の乱を引き起こした足利持氏は、6代将軍足利義教の打倒を祈願して願文を奉納していました。現在でも重要文化財として残る15巻から成る「鶴岡八幡宮文書」の中に収められており、自らの血を混ぜて赤い文字で書かれているのです。

足利持氏血書願文の画像はこちら

 

鶴岡において

大勝金剛尊等身造立の意趣は
武運長久 子孫繁栄 現当二世安楽のため
殊には呪詛の怨敵を未兆に攘い
関東の重任を億年に荷なわんがため
これを造立し奉る也

永享六年三月十八日

従三位行左兵衛督源朝臣持氏

引用元 鶴岡八幡宮文書「足利持氏血書願文」より

 

しかし持氏が永享の乱で敗れ、子の成氏が鎌倉を離れて古河へ移ると、後ろ盾を失った鶴岡八幡宮は再び衰退し、さらに戦国時代へ入ると北条氏と里見氏の争いの中で戦火に遭い、焼亡してしまったのでした。

その後の興隆と廃仏毀釈

鶴岡八幡宮が火災で焼亡したあと、1540年に再建造営の任にあたったのは北条氏綱でした。実は北条氏は源氏ではなく平氏の流れを汲む武家でした。その当時にはすでに源氏や平氏関係なく、武士全般からの尊崇が篤かったということがいえるでしょう。

そして時を経て1590年に豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、秀吉は武士の尊崇を集める鶴岡八幡宮の修築に意欲を示し、安置されていた源頼朝の木像の肩に手を掛け、こう言ったそうです。

 

「私とあなたは共に低い身分から天下を取った。しかしあなたは皇族の子孫であり父祖は関東を従えていた。だから流人の身分からでも多くの者が付いていったのだろう。

しかし私には立派な家系も系図もないが天下を取ったのだ。だからあなたより私の方が勝っているといえるだろう。でも、あなたとは天下の友だちであることに変わりはない。」

 

その後、江戸時代となり、鶴岡八幡宮は幕府の庇護を受けてますます隆盛していきました。現在の本宮や回廊、鳥居などは江戸期の再建だといわれていますね。

しかし、明治になって神仏習合の形態を採っていた鶴岡八幡宮にとって危機が訪れます。新政府が神仏分離令を発したために、境内にあった神宮寺などの仏教施設の廃絶、仏像や経典の破棄などが行われたのでした。常住していた僧たちも還俗して神主などの神職にならざるを得なくなり、日本の近代化とともに急速に神社化していったのです。

鶴岡八幡宮の季節ごとの祭礼

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鶴岡八幡宮は、祭神として応神天皇、神功皇后、比売神が祀られています。季節ごとの祭儀も数多くあり、そのたびに多くの参拝客や観光客が訪れる場所でもあるのです。特に大きな祭礼をちょっとご紹介していきましょう。

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