- 三方ヶ原の戦いが起きるまでの武田信玄と徳川家康
- 三方ヶ原の戦いとは?
- 三方ヶ原の戦いが起きた背景
- 武田信玄を迎え討つ徳川家康だったが…
- ついに両軍が相まみえる!三方ヶ原の戦いに至る前哨戦
- 武田の猛将が家康を追いつめる!一言坂の戦い
- 徳川方の武将・本多忠勝の活躍
- 徳川方の重要拠点・二俣城が落とされる
- 三方ヶ原の戦い本戦の開始!信玄の強さの前に、撃破された家康
- 無視された家康、怒って出撃
- 家康の虚を衝いた信玄の布陣
- 家康大敗!恐怖の逃亡劇
- 三方ヶ原の戦いの後、戦国時代はどうなったのか
- 家康、「空城の計」で信玄の追撃を退ける
- 信玄の死去と天下の移り変わり
- 三方ヶ原の戦いでの大敗は、家康の大きな経験となった
この記事の目次
三方ヶ原の戦いが起きるまでの武田信玄と徳川家康
三方ヶ原の戦いで激突することとなる武田信玄と徳川家康ですが、この戦いに至るまでには、当時の状況が大きく関係しています。戦国最強をうたわれる信玄が、なぜ信濃攻略かから西へと矛先を変えたのか、家康はいったいどんな状況だったのか…この戦いを理解するポイントをご紹介しましょう。
三方ヶ原の戦いとは?
三方ヶ原の戦いが行われたのは、元亀3年12月22日(1573年1月25日)のこと。場所は三河国の三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町付近)でした。武田信玄と徳川家康の直接対決で、徳川軍には同盟相手の織田信長の援軍も加わっていました。
数は、武田軍が2万7千から4万3千、徳川・織田連合軍が1万1千から2万8千と伝わります。
当時、武田信玄は最強クラスの戦国武将で、その配下の武将たちも歴戦の勇将ぞろいでした。数的有利に加え、場数を踏んだ武田軍が圧倒的に有利だったというわけです。
こちらの記事もおすすめ
甲斐の虎、武田信玄の生涯をわかりやすく解説! – Rinto~凛と~
三方ヶ原の戦いが起きた背景
三方ヶ原の戦いに至るまでの時代背景をご説明しておきましょう。
武田信玄は、信濃(長野県)侵攻で上杉謙信と対立し、数度にわたる川中島の戦いを繰り返していました。しかし、戦いに決着がつかずにいたところ、永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで今川義元(いまがわよしもと)が織田信長に敗れたため、矛先を信濃から今川領の駿河(するが/静岡県中部・北東部)に転じたのです。
武田氏と今川氏、関東の後北条氏は「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という関係を結んでいましたが、この時はすでに崩れ始めており、信玄は今川領への侵攻にためらいはありませんでした。
そしてこの頃、織田信長と仲違いした室町幕府第15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が、各地の武将たちに信長討伐の命令を下していたのです。これが信長包囲網と呼ばれるものですが、信玄はそれに応じ、義昭のいる京都へ上洛するため、織田領と徳川領への侵攻を開始したのでした。これが「西上作戦(せいじょうさくせん)」と呼ばれるものです。
こちらの記事もおすすめ
毘沙門天の申し子、軍神とも称された上杉謙信の生涯についてわかりやすく解説 – Rinto~凛と~