室町時代戦国時代日本の歴史

食い逃げに脱糞!?徳川家康が屈辱にまみれた三方ヶ原の戦いとは?

戦国時代に起きた数多くの戦の中で、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いは、当時最強とうたわれた武田信玄と、まだキャリアの浅かった徳川家康が対決した合戦でした。百戦錬磨の武田の軍勢の前に、家康はあっさりと撃破され、命からがら退却することとなります。いったいどんな戦だったのでしょうか?

三方ヶ原の戦いが起きるまでの武田信玄と徳川家康

image by PIXTA / 33182862

三方ヶ原の戦いで激突することとなる武田信玄徳川家康ですが、この戦いに至るまでには、当時の状況が大きく関係しています。戦国最強をうたわれる信玄が、なぜ信濃攻略かから西へと矛先を変えたのか、家康はいったいどんな状況だったのか…この戦いを理解するポイントをご紹介しましょう。

三方ヶ原の戦いとは?

三方ヶ原の戦いが行われたのは、元亀3年12月22日(1573年1月25日)のこと。場所は三河国の三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町付近)でした。武田信玄徳川家康の直接対決で、徳川軍には同盟相手の織田信長の援軍も加わっていました。

数は、武田軍が2万7千から4万3千、徳川・織田連合軍が1万1千から2万8千と伝わります。

当時、武田信玄は最強クラスの戦国武将で、その配下の武将たちも歴戦の勇将ぞろいでした。数的有利に加え、場数を踏んだ武田軍が圧倒的に有利だったというわけです。

三方ヶ原の戦いが起きた背景

三方ヶ原の戦いに至るまでの時代背景をご説明しておきましょう。

武田信玄は、信濃(長野県)侵攻で上杉謙信と対立し、数度にわたる川中島の戦いを繰り返していました。しかし、戦いに決着がつかずにいたところ、永禄3(1560)年に桶狭間の戦い今川義元(いまがわよしもと)が織田信長に敗れたため、矛先を信濃から今川領の駿河(するが/静岡県中部・北東部)に転じたのです。

武田氏と今川氏、関東の後北条氏は「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という関係を結んでいましたが、この時はすでに崩れ始めており、信玄は今川領への侵攻にためらいはありませんでした。

そしてこの頃、織田信長と仲違いした室町幕府第15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が、各地の武将たちに信長討伐の命令を下していたのです。これが信長包囲網と呼ばれるものですが、信玄はそれに応じ、義昭のいる京都へ上洛するため、織田領と徳川領への侵攻を開始したのでした。これが「西上作戦(せいじょうさくせん)」と呼ばれるものです。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: