弥生時代の日本
弥生時代は紀元前500年から紀元後300年くらいまで続いたとされます。狩猟採集が中心だった縄文時代から、稲作が中心となる弥生時代になったといわれていますね。弥生時代とはどのような時代だったのでしょうか。稲作の伝来から弥生時代の人々の生活、「むら」から「くに」への変化についてまとめます。
稲作の伝来と水稲耕作の始まり
稲の原産地は中国の雲南省や長江の中・下流域だと考えられています。主に中国南部で始まった稲作は朝鮮半島や南西諸島などを経由して日本に持ち込まれました。
九州北部の板付遺跡(福岡県)や菜畑遺跡(佐賀県)では、縄文時代晩期から弥生時代の早期にかけての水田遺構が発見されています。日本に伝わった稲作は徐々に日本列島を北上。弥生時代前期には青森県に達しました。
最初は一年中、水が張っている湿田で稲が栽培されます。田植えなどは弥生時代前期には行われていたようですね。鉄製の鍬や鋤の使用が始まると、水を完全に抜くことができる乾田が開発され、水路の造成が進みました。
乾田は湿田と比べると稲が育ちやすく、農作業も楽に行うことが可能です。稲作の伝来は日本人の生活を大きく変化させました。
弥生時代の人々の生活
弥生時代に入ると、縄文時代の土器と比べ薄くて固く、実用性に優れた弥生土器が生産されます、弥生土器とともに、コメや籾が発見されることから弥生時代に水田耕作が行われていたことが確認できました。
弥生土器が縄文土器よりも薄くて固いのは縄文土器より高温で焼いたからです。弥生時代には石包丁とよばれる石器で稲を刈り取りました。
刈り取った稲は高床倉庫に保存されます。高床倉庫にはネズミ返しなどをつけ、コメをネズミの食害から守りました。また、青銅器や鉄器が大陸から伝来したのも弥生時代です。
青銅器は祭器に、鉄器は実用的な道具や武器に使用されました。代表的な青銅製祭器は、銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈です。特に、銅鐸の中には稲作の様子など弥生時代の人々の暮らしが絵で描かれるものもありました。
「むら」から「くに」へ
稲作が行われるようになると、縄文時代に比べ人々の生活は安定しました。縄文時代と比べると、弥生時代の方が人口増加したことが予想できますね。
人口が増大すると、コメをより多く生産するための土地や水資源が必要。そのため、土地や水をめぐって人々が争い始めたと考えられます。
争いの増加に対応するためか、弥生時代の前期から中期にかけての時期に集落を濠で囲んだ環濠集落が出現しました。今回紹介する吉野ケ里遺跡も環濠集落の一つ。環濠集落は集落の外に濠、その外側には敵の侵入を防ぐための逆茂木や杭が打ち込まれました。
瀬戸内海沿岸では山の上につくられた高地性集落が出現します。生活に不便な場所にあえて集落を作っていることから、いざという時のための逃げ込み先として作った可能性もありますね。
こうして、小さな「むら」同士の争いが頻発。勝った集落は負けた集落を統合し、「くに」へと成長しました。
こちらの記事もおすすめ
縄文時代とは~どんな暮らしをしていたの?弥生時代とはどう違う? – Rinto~凛と~
吉野ケ里遺跡のポイント
佐賀県にある吉野ケ里遺跡は弥生時代のものとしては国内最大級の環濠集落です。濠に囲まれた住居跡や物見やぐらの遺構、甕棺や墳丘墓などが発掘され弥生時代の日本を知るための重要な遺跡。吉野ケ里遺跡の建物遺構や発掘された出土品、墳丘墓や甕棺墓についてまとめます。
吉野ケ里遺跡の歴史
弥生時代は紀元前500年から紀元後300年くらいまでの約700年間。吉野ケ里遺跡では弥生時代のほぼすべての時期にあてはまる遺物や遺構が発見されました。このことは、吉野ケ里遺跡が弥生時代を通じて繁栄をつづけた証拠と考えてよいでしょう。
吉野ケ里に集落ができたのは弥生時代の前期と考えられます。この時期、すでに一部の区画ですが環濠を形成。吉野ケ里が一定の人口と労働力を持っていたことがわかります。
弥生時代中期になると吉野ケ里では墳丘墓や甕棺墓がつくられました。墳丘墓はリーダーを葬るための小さな古墳。甕棺墓は甕棺とよばれる土器に遺体を入れて埋葬した墓のことです。
また、集落を囲む環濠も前期より大きくなりました。弥生時代後期になると、環濠はさらに大規模化。特別なスペースである北内郭と南内郭を持つようになります。
こうして巨大化した吉野ケ里遺跡ですが、弥生時代が終わる3世紀後半には環濠が埋没し、集落が失われました。その理由は現在でもよくわかっていません。