まずはおさらい!鎌倉時代とは?
まずは、鎌倉時代をひと通り振り返って見ていくことにしましょう。マイナーだなんてとんでもない、実は非常に移り変わりが激しい権力争奪・動乱の時代だったことがわかります。
1.権力の奪い合いと北条氏
1192年に源頼朝が開いた鎌倉幕府。頼朝は、言わずと源氏の棟梁です。例えば江戸時代のようなイメージですと、このまま源氏がずっと将軍を続けていくわけですが、そうはならないのが鎌倉時代。頼朝の死後、すぐに親戚の北条氏に政権を事実上乗っ取られてしまうのです(一応2代将軍・頼家、3代将軍・実朝と続きますが、お飾りのような存在でした)。
政権を乗っ取った北条氏ですが、実は北条氏の支配を崩そうとする人が現れます。そう、朝廷(天皇家)の後鳥羽上皇です。この後鳥羽上皇と北条氏が戦い(承久の乱※1)、北条氏が勝つことで、ようやく日本は(一応)静かになりました。
このように、権力が何重にも重なって統治されていて、入れ替わりが激しかったのが鎌倉時代のとりわけ前期になります。これが鎌倉時代をわかりづらくしている原因のひとつです。
※承久の乱…後鳥羽上皇が、全国の支配権を朝廷に戻そうとして起こした乱。
2.元寇とその後
鎌倉時代の後期の一大事件と言えば、やはり「元寇」を外すことはできません。結果はご存じの通り、暴風にも助けられて日本が圧勝しました。それにしても、現代に至るまで、他国が日本に対し一方的に大挙して侵略を試みてきた例はこの一例のみ。世界史の渦に日本が巻き込まれそうになったという意味でも、レアケースだったと言えます。
もっとも、元からの攻撃を撃退したとはいえ、その後の日本に何の影響もなかったわけではありません。当時、武士は決死の戦いをすることでご褒美の所領を貰っていました(「御恩と奉公」)。しかし、元寇の場合は相手が外国だったので、幕府は勝っても褒美の所領を与えることができなかったのです。当然、武士の不満は溜まります。そしてこれが、鎌倉幕府滅亡の遠因へとなっていくのです。
殺伐とした政治、発展した経済
それでは、キーワードにもなっている「権力闘争と発展」について見ていきたいと思います。鎌倉時代は、激しい権力の奪い合い、そして一方で発展の時代でした。それでは具体的にどの点にそれらがみられるのか、解説をしていきます。
1.苛烈な権力闘争
おさらいの項で、北条氏が源氏から権力を乗っ取ったことを書きました。しかし、北条氏が行った所業はそれだけに留まりません。有力な御家人をことごとくその手で粛清していったのです。梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛、三浦泰村…。しかも畠山重忠などは「鎌倉に異変が起きたので来て欲しい」と騙して呼び寄せ、粛清しました。また、北条氏の身内にも粛清劇は起こりました。鎌倉幕府の初代執権である北条時政は、子の義時によって失脚させられています。
このことは何を意味するのでしょうか。「これだけ粛清するのだから、北条氏というのは強かったんだな」と考えるのは早計でしょう。むしろ逆で、「こうやって次々と競争相手を粛清しなければならないくらい、自分の足元に自信がなかった」と考えたほうが良いかもしれません。いずれにせよ、この当時の権力闘争の激しさがよくわかる事例です。
2.経済成長
殺伐としていた政治ではありますが、経済はどうだったのでしょうか。
実は非常に発展します。まずは「二毛作」の確立。西日本や畿内(関西地方)などで行われるようになりました。つまり、米の後に麦を栽培するわけですね。これによって収穫量は増大しました。
それから「貨幣」。宋銭(中国の貨幣)が大量に流通するようになりました。そして、それによって例えば定期市(三日市、五日市、八日市など)といった市場が開かれ、経済が活発化したのです。
また「座」と呼ばれる商工業者の組合も作られ始めます。そう、「銀座」の「座」も、さかのぼればこの「座」が語源です。