- 古代の都_平城京と平安京
- 古代の奈良盆地の平城京と貴族文化の華開いた平安京
- 現在の平城京と平安京
- 古代の都は大王が変わると新しい都に移った
- 中国唐の都長安を模して作られた平城京と平安京
- 平城京はどんな都だったのか?
- 藤原京から平城京への遷都
- ふたたび豪族の力が強まった奈良時代は女帝の時代だった
- 仏教による平和祈願は裏目に
- 過去になかった規模の平城京
- 南都仏教勢力の台頭から山城の国に遷都_桓武天皇による長岡京遷都
- 長岡京はなぜ続かなかったのか
- 平安京遷都によって日本の都はようやく京都に落ち着いた
- 平安京も唐の長安をモデルに作られた
- 実質的に平安朝廷を牛耳っていたのは藤原氏
- 貴族文化の花開いた平安京_藤原一族の繁栄を支えた荘園
- 遣唐使を止めて日本独自の文化が花開いた平安京
- 荘園の管理を任せた武士の台頭
- 源平合戦によって長い平安時代は終わったが、平安京は続いた
- 武士の世の終わりとともに平安京も終焉を迎えた
- 日本文化の源である平安京と平城京
この記事の目次
古代の都_平城京と平安京
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都は首都とも言われますが、その国の元首である王(天皇)がいる場所を言います。王のいる王宮があったところが都なのです。日本の都(首都)は現在東京ですが、過去には平城京と平安京という二つの有名な都がありました。
古代の奈良盆地の平城京と貴族文化の華開いた平安京
平城京は、「へいじょうきょう」という読み方以外に「へいぜいきょう」と呼び方もあります。平城京は、天皇家の初代である神武天皇が即位した奈良盆地の橿原市(古代では磐余(いわれ)と言われた)であったこともあり、奈良盆地の中、その北方にありました。天平文化が花開いた時代だったのです。しかし、奈良盆地には古代から多くの王宮が建てられ、平城京以外にも多くの宮跡があります。
一方、平安京は、平城京において仏教勢力が強くなり過ぎたことから、桓武天皇の時代に山背(やましろ)の国に都を移されました。最初は、大阪寄りの長岡京に移されましたが、いろいろな出来事があり、最終的に現在の京都市内に都はふたたび移されたのです。この平安京に移ってからを歴史的には平安時代と言われ、貴族文化が花開いた時代でした。しかし、平安京は、平安時代だけの都ではなく、明治維新によって東京に都が移されるまでは、日本の首都は常に平安京が都だったのです。すなわち、8世紀末から19世紀後半まで実に1,000年以上日本の都は平安京でした。
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現在の平城京と平安京
平城京は、発掘によってその規模や建物などを復元していますが、王宮そのものは今ではありません。しかし、平安京は、京都市内に今も明治天皇のいた王宮である京都御所が残されています。ただ、もともとの歴代天皇の住まわれていた御所(平安京)は、現在の京都御所の位置よりも東にあり、大宮通りと言われる通りの北にありました。京都は、政権が何度も入れ替わり、御所も何度も焼けて移動しているのです。
古代の都は大王が変わると新しい都に移った
平城京の前までは、天皇の住まわれる王宮の位置は常に代わっていました。奈良盆地だけでなく、今の大阪などにも移動しています。もともと、平城京の前までは藤原京と言われた王宮を備えた都がありました。藤原京を作った女帝の持統天皇の子供にあたる文武天皇の時代に平城京の発案があり、元明天皇の時代(710年)に遷都したと言われています。
藤原京よりも前までは、天皇が交代したり、同じ天皇の間でも都は常に移動していたのです。しかし、そのほとんどの都(王宮)は現在の奈良盆地で作られていました。中大兄皇子の母にあたる皇極天皇(重祚して斉明天皇)の時代には、現在の大阪府に難波宮が設けられたり、都は遷都を繰り返していました。天智天皇が即位してからも、朝鮮半島で白村江の戦いに負けたことから、なるべく朝鮮半島から遠いところに都を移そうとしています。紫香楽宮や恭仁京、大津京など、滋賀県にも都が設けられたこともあったのです。
中国唐の都長安を模して作られた平城京と平安京
聖徳太子の時代以降に、中国の王朝を見習って都や統治の制度を作ろうとして、遣隋使や遣唐使が遣わされたのです。そして、唐の都の長安を参考にして、平城京や平安京は作られました。その最初は藤原京であったと言われていますが、規模は小さかったのです。平城京も平安京も、天皇の住む王宮(内裏(だいり))を中心として、碁盤の目のように道路を通して、都作りがおこなわれました。現在でも、京都や奈良では、通りの名前として南北の通りでは一条通りから十条通りまでが名称として残っています。
そして、この平安京をモデルとして日本の各地でも坊条制と言われる区画を持った都市作りが行われたため、同様の通り名のある都市が全国にあるのです。
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平城京はどんな都だったのか?
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平城京は、奈良盆地の北に作られました。それまでの都とは比べものにならないくらいに規模の大きい都だったのです。唐の都の長安を模して、内裏(だいり)を中心にして碁盤の目をした計画的な街作りがおこなわれました。藤原京も同様の作りになっていたと言われていますが、その規模は比べものになりません。
また、それ以前の都は、単に天皇(大王)の住む王宮のみの建設であり、臣下はその周り(飛鳥地域)に勝手に住居を持っていました。王宮の位置は変わっても重臣たちは従来の館のままというケースが多く、街作りなどはおこなわれなかったのです。