- 1. まず、伊達政宗とは?
- 1-1. 引っ込み思案な少年から脱皮
- 1-2. 苦境を切り抜け東北を掌握しかけるも、秀吉に屈す
- 1-3. 野心みなぎる武将
- 2. 政宗の右腕・片倉景綱
- 2-1. 景綱に多大なる影響を与えた姉・喜多
- 2-2. 政宗を変えた男・景綱
- 2-3. 政宗のためなら自分を実験台にもする
- 2-4. 政宗に遠慮しすぎて子供を殺そうとする
- 3. 「智」の小十郎として政宗の片腕となる
- 3-1. 主のふりをしてその危機を救う
- 3-2. 調略を駆使し軍師的存在となっていく
- 3-3. 政宗の命運を左右した的確なアドバイス
- 3-4. 時に強烈な物言いで相手をたじたじに
- 3-5. 大坂の陣の推移を予言していた?
- 3-6. 子孫は今もなお政宗を祀り、守り続けている
- 4. もうひとりの「伊達の双璧」伊達成実
- 4-1. 政宗とは近しい親族
- 4-2. 片倉景綱と同様、政宗を命がけで救う
- 4-3. 政宗のために働き、武の中心として成長する
- 4-4. 政宗のために…剛毅な武将として
- 5. 出奔と帰参の謎がありながらも、やはり政宗に仕えた後半生
- 5-1. 謎の出奔!理由は!?
- 5-2. 帰参を許され、再び重臣となる
- 5-3. 亘理城主として内政に手腕をふるう
- 5-4. 伊達の元勲として偉業を伝える
- 伊達政宗の人気の影に、伊達の双璧あり
この記事の目次
1. まず、伊達政宗とは?
片倉景綱と伊達成実について紹介する前に、彼らの主・伊達政宗についても少し触れておきたいと思います。戦国武将として実にユニークな存在だった彼について予備知識を入れおけば、より2人についてわかりやすく面白く知ることができると思いますので。
1-1. 引っ込み思案な少年から脱皮
永禄10(1567)年に伊達輝宗(だててるむね)の嫡男として誕生した政宗でしたが、幼いころに疱瘡を患い、右目の視力を失ってしまいます。一説には、飛び出してしまった右目を気に病み、引っ込み思案な少年になってしまったとも言われていますよ。
しかし、それを克服してからの彼は、若き当主として伊達家を引っ張る頼もしい存在へと成長しました。父・輝宗が敵に拉致され、やむなく敵ごと殺さなければならないなど厳しい状況を経験したことが、彼を脱皮させたのです。
1-2. 苦境を切り抜け東北を掌握しかけるも、秀吉に屈す
しかし、周辺勢力とのせめぎ合いも厳しいものでした。人取橋(ひととりばし)の戦いではあやうく命を落としかけるところでしたが、片倉景綱や伊達成実らの奮戦や、他の家臣たちが命をかけて政宗を逃がし、九死に一生を得たのです。
その後、態勢を建て直した政宗は攻勢に転じ、東北地方における有力な武将となっていきます。
ところが、政宗の勢力拡大を阻んだのは、豊臣秀吉でした。
小田原征伐にやってきた秀吉の召集に遅れた政宗は、すんでの所で死罪を免れます。こうして、東北の雄となり天下を狙おうと意気込んでいた彼は、秀吉の家臣となる道を選んだのでした。
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1-3. 野心みなぎる武将
ただ、政宗も食えない男でした。小田原で秀吉に面会した際は、死を覚悟しているという意味合いを込め、白装束で臨み、秀吉を面白がらせて罪を免れました。
家臣となってからも、こっそりと東北での葛西・大崎一揆を扇動するなどして完全服従とはいかない様子を見せていましたが、事が露見しそうになると、屁理屈をこねたり、自らを磔にするための黄金の十字架を携えて上洛したり、突拍子もないパフォーマンスを見せています。
その一方で、関ヶ原の戦いと大坂の陣の後は江戸幕府に仕え、徳川家光からのおぼえもめでたく、仙台の街を整備するなど、名君としての顔も十分に持ち合わせていたのでした。
そんな政宗を一貫して支えたのが、「伊達の双璧」である片倉景綱と伊達成実だったのです。
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2. 政宗の右腕・片倉景綱
片倉景綱は、政宗の腹心中の腹心であり、政宗が幼少のころからそばでその成長を見守ってきた人物です。参謀としての能力もずば抜けており、政宗の躍進には常に彼の影がありました。片倉景綱なくして伊達政宗はなかった、そう断言できる彼の人生についてご紹介しましょう。
2-1. 景綱に多大なる影響を与えた姉・喜多
片倉景綱は、弘治3(1557)年に生まれました。政宗より10歳年上となります。「小十郎(こじゅうろう)」という呼び名が有名ですね。
母は当初、伊達氏の重臣・鬼庭良直(おににわよしなお)の妻で、彼との間に姉・喜多(きた)をもうけました。しかし男子を産むことがなく、良直の側室に男子が生まれたため、離縁されてしまったのです。そして母は喜多を連れて片倉景重(かたくらかげしげ)と再婚し、景綱が生まれたのでした。
こんな事情があり、景綱と姉・喜多とは父親が違うのですが、両親が早くに亡くなってしまったため、景綱はこの19歳年上の姉・喜多に育てられることになりました。喜多は文武両道の女性で、兵法にまで通じていたと言われており、大きな影響を景綱に及ぼすこととなります。
そして、頭脳明晰な若者に成長した景綱は、伊達家臣・遠藤基信(えんどうもとのぶ)に才能を見いだされ、また、喜多が政宗の乳母(めのと)に選ばれたこともあり、19歳の時に政宗の小姓となりました。
つまり、喜多は景綱と政宗の両方に影響を与え、彼らの才能を花開かせた張本人でもあるのです。後に彼女は政宗の正室・愛姫(めごひめ)付きとなり、天下人・豊臣秀吉に謁見して「少納言」とその才能を称えられるほどでした。