室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる「伊達政宗」-独眼竜の由来は?刀は?その生涯をわかりやすく解説

ダンディーとも称される「伊達者」の語源となったカッコいい戦国武将の「伊達政宗」は、隻眼だったことから「奥州の独眼竜」というあだ名をつけられています。障害を負いながらも生きるか死ぬかの時代に、「戦国最後の武将」と呼ばれるほど、戦国大名の中でも実力は抜きに出ていたとか。現在でも人気戦国武将のひとり、独眼竜政宗こと「伊達政宗」の生涯をご紹介します。

1.独眼竜政宗誕生!

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「粋でおしゃれな男性」という言葉「伊達者」の基となったのが、独眼竜政宗こと「伊達政宗(だてまさむね)」です。彼の知勇兼備でセンスが良く強気の戦いぶりは、優秀な家臣たちの信頼を一身に集めました。性格は野心家で、和歌や茶の湯、料理など趣味も多かったとか。それでは、東北地方の戦国大名「独眼竜政宗」の生涯を見てみましょう。

1-1.政宗の誕生

出羽国と陸奥国の覇者となる政宗は、永禄10(1567)年8月3日に、城主伊達家16代当主「伊達輝宗(だててるむね)」と最上義守の娘「義姫(よしひめ:お東の方)」の長男として、米沢城(現:山形県と秋田県の一部)で誕生ました

米沢城は政宗が誕生し少年時代を過ごした城で、伊達家を継いだ時に本拠地としています。23歳で蘆名氏を滅ぼし、黒川城に入るまでこの城の城主でした。「伊達政宗公生誕之地」という碑があります。当時は、天守閣も石垣もない、堀だけの平城です。江戸時代に上杉家が城主となった時に、改築されています。

結婚後2年経ったころ、義姫の夢に出てきた白髪頭の老人僧から「梵天(ぼんてん)を授かるだろう。」とのお告げを受け、男の子を授かりました。幼名の梵天丸は、このお告げからつけられたようです。このことは、藩の歴史書のひとつ「性山(輝宗の戒名)公治家記録」に書かれています。

ちょっと雑学

義姫が夢で見た白髪の老人僧は、奥州の修業僧で片目の不自由な「万海上人(まんかいじょうにん)」だったといわれています。政宗が生存のころには既に「政宗は、万海上人の生まれ変わり。」といわれ、万人に慕われていたとか。

1-2.天然痘で右目視力を失う

5歳の時に梵天丸は天然痘にかかり、数日間高熱をだし生死を彷徨います。当時天然痘患者の半数は命を落とす時代でしたが、奇跡的に治癒しました。しかし、天然痘の毒が右眼に入り、失明しただれて醜くなってしまったのです。

元々気の弱い梵天丸は、病をきっかけに内気な性格になります。その上、母がひとつ下の弟竺丸(じくまる・小次郎)を寵愛し、政宗を遠ざけたのです。

1-3.教育係虎哉宗乙

完全に自分の殻に閉じこもってしまった梵天丸を見て、家臣たちは「梵天丸さまでは伊達家を支えられない。小次郎さまが継ぐべき。」と噂をします。父輝宗だけは、梵天丸の能力を信じ、後継ぎにと心に固く誓っていたようです。

梵天丸が6歳の時に父は、厳格で優れた臨済宗の僧「虎哉宗乙(こさいそういつ)」を教育係につけ、聡明な子に育てました。美濃(現:岐阜県)出身の彼を米沢に招き、元亀3(1572)年7月7日に資福寺の住職にしています。劣等感に苛まれる梵天丸に、「積極的な性格を身につけ、伊達家を守れる武将となれ!」と喝を入れ前向きな性格へと教育し直すのです。

ちょっと雑学

政宗の性格は派手好きで、血液型はB型。頭脳明晰で、眼識のある人物だったようです。相手の性格を分析し機転を利かせて、ピンチをチャンスに変えていたとか。鼻筋は高く整った顔立ちの美男子でした。身長は当時の平均で159.4cm。戦場で活躍した通り、がっちり体型で筋肉質だったとか。だから、戦国武将一のカッコよさを誇ったのかも。

1-4.絶大な信頼関係で結ばれた小十郎

もう一人、梵天丸の乳母の弟で、10歳年上の「片倉小十郎(かたくらこじゅうろう:後の景綱)」が、守役に選ばれます。米沢八幡神社神主の次男ですが武芸に優れ、後に白石城を任された人物です。“武芸に長けた積極的な性格を身につけ、当主に相応しい人物となって欲しい”との願いからでした。

初対面は好印象で「若様、剣術のけいこをいたしましょう。」と、自分の顔を怖がらずに真っすぐ見る姿に、「こいつなら心を開ける。」と思ったようです。小十郎と出会った後、見違えるように活発になったとか。もちろん、強い信頼関係で結ばれた、側近の存在も必要と考え選んだとも。景綱は、名参謀として、政宗に仕えています。

ちょっと雑学

「母の愛を独り占めする弟を見ると、体がすくんでしまう」と、梵天丸は小十郎に悩みを打ち明けます。その夜、景綱が死を覚悟した時に着る「白装束」を纏いやってきました。

若がそのような人物では、伊達家の主とはなれません。若のお相手を命じられた者としては、生きられません。ここで切腹します。」というのです。「お前が死んだら、俺も死ぬ。」といった梵天丸に、「私を信じて醜いお顔の部分を切り取らせてほしい。」といいました。梵天丸も引くに引けず、切らしたというエピソードが残っています。

でも、後に政宗の頭蓋骨に眼球摘出の跡がないことが判明しており、事実でないことが確認されています。

2.元服後の政宗って?

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政宗の生きた時代は、奥州の大名たちが国盗り合戦を繰り広げ、豊臣秀吉の天下統一、徳川家康の江戸幕府創建などが起こりました。「天下人にいつかは…」と、大名の誰もが狙っていたのです。政宗もその中の独り。母に疎まれ自信を無くし自身が伊達家を継ぐことはないと思っていましたが、長男の政宗に父は家督を継がせます。政宗は、父の期待以上に、当主としての絶大な信頼を得て活躍するのです。

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