将軍独裁と有力御家人の合議制
1185年、壇ノ浦で勝利し平氏を滅ぼした頼朝は弟の源義経と対立します。頼朝は朝廷に迫り義経追討の為、守護や地頭を諸国に設置する許可を得ました。これが、事実上の幕府の始まりとされます。幕府の仕組みを作った頼朝が急死し、頼家が跡を継ぎました。しかし、頼家の能力が不足していると考えた有力御家人たちは頼家の独裁を停止し、幕府の政治を有力御家人による合議制へと移行させます。中でも力を持ったのが北条氏でした。
源頼朝、鎌倉幕府を開く
1180年、頼朝は関東で反平氏の兵をあげました。富士川の戦いで勝利した頼朝は勢いに乗って京都に進撃することもできたはずですが、兵を東に返します。頼朝は相模国鎌倉を本拠として定めると、武家政権の仕組みを作り上げました。
1180年に御家人たちを統率する侍所を設置。1183年に朝廷から関東などの東国を支配する権利を得ます。1184年、政治を担当する公文所や裁判を司る問注所などの機関を設置しました。
同時に、頼朝は弟の源範頼や源義経を西国に派遣。京都を占拠していた木曽義仲や西国に勢力を保っていた平氏を壇ノ浦の戦いで滅ぼしました。
このとき、目覚ましい活躍を示した義経に目を付けたのが朝廷のトップである後白河法皇。後白河法皇は義経に勝手に官位を与え、義経は頼朝に相談せず官位を受けてしまいました。これに怒った頼朝は義経討伐の命令を下します。
そして、朝廷に対し、義経討伐を実行するため、諸国に守護や地頭を設置する許可を求めました。1189年、頼朝は義経をかくまったとして奥州藤原氏を討伐し平定。1192年には征夷大将軍に就任しました。
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将軍独裁の停止と合議制への移行
1199年、源頼朝が急死しました。これにより、長男の源頼家が家督を相続し2代目の将軍となりました。しかし、頼家の政治は頼朝と異なり、従来の慣例を無視した独裁的なものだったため、御家人たちは頼家に強く反発します。
このため、頼家の独裁は停止され、幕府の政治は13人の有力御家人の合議によって決められることになりました。
1203年、母である北条政子の実家の北条氏と、頼家の妻である若狭局の実家の比企氏が対立。北条氏が比企氏を攻撃して滅ぼしてしまいました。
比企氏滅亡後、信頼する側近すらいなくなった頼家は北条時政(北条政子の父)らによって将軍の地位を奪われてしまいます。頼家は伊豆の修善寺に幽閉され、その地で謀殺されました。
北条氏の台頭と源実朝の死
1203年、頼家が将軍の地位を追われ、鎌倉から追放されると、弟の源実朝が鎌倉幕府3代将軍となります。12歳の若さで将軍となった実朝は、政治の実務を北条氏ら有力御家人に委ねました。
1205年、北条時政が有力御家人の畠山重忠を謀殺します。これに反発したのが子の北条義時でした。義時は姉の政子や他の有力御家人と協力し時政を排除することに成功します。以後、北条義時が執権として幕政の主導権を握りました。
1219年、武士として初めて右大臣という高位に上った実朝は、1月27日、鶴岡八幡宮にお参りします。この時、鶴岡八幡宮の別当(神社の職務を統括するトップ)の地位についていた頼家の子の公暁によって討ち取られてしまいました。
公暁は実朝が父頼家を謀殺させたのだと信じていたのかもしれません。公暁は実朝を殺害した日のうちに討ち取られます。いずれにせよ、実朝の死で源氏の直系は断絶しました。
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北条氏による執権政治の確立
源氏将軍の断絶を、鎌倉幕府を弱体化させるチャンスだと考えたのが朝廷のトップである後鳥羽上皇でした。後鳥羽上皇は北条義時を朝敵として追討せよとの院宣を下します。しかし、義時は幕府を支持する御家人たちを糾合。姉の演説もあって御家人たちは鎌倉幕府を守るために団結します。承久の乱に勝利した鎌倉幕府は、義時の次に執権となった泰時の下、諸制度を整備。さらに、1232年には初の武家法である御成敗式目を定めました。