大正日本の歴史

大正ってどんな時代?時代を象徴する3つのキーワードから解説

大正時代は、1912年から1925年まで。明治と昭和の間、わずか15年という短い時代であり、日本史の中で最も短い時代区分です。しかしその短い期間の中においても、さまざまなことが起こりました。今回の記事では、大正時代を象徴するキーワードを中心として、そのワードをそれぞれ掘り下げて紹介していきます。この記事を読むことで、大正という時代を少し身近に感じられるかもしれません。

キーワード1 民主主義の発展を目指す、さまざまな運動「大正デモクラシー」

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古代中国で記された五経の一つ・『易経』に出てくる「亨以、天之道也」が、「大正」という元号の由来です。これには「政治をするものが民の声を聞き、正しい政治が行われる」という意味があり、実際に大正時代は庶民が社会に対して声を上げ始めた時代でした。

そもそもデモクラシーってどういう意味?

デモクラシーの辞書的な意味は、「民主主義」です。デモクラシーという言葉単体は、大正時代に実際使用されていました。しかし「大正デモクラシー」という呼称は、歴史学者・信夫清三郎によって1950年代に生み出されたものです。

「大正デモクラシー」は定義があいまいではあるものの、さまざまな方面での民本主義発展を目指す運動の総称。民本主義とは民主主義とほぼ同じような意味ですが、日本が天皇主権であったためこの言葉が使われました。簡単に言うと、「国民がみんな平等に、自由に生きられる社会にしていこう」という運動です。

「大正デモクラシー」はいつどのように行われた?

期間については諸説ありますが、「大正デモクラシー」が行われたのは1910年代~1920年代と大正時代にほぼ重なります。この頃の日本政治は、藩閥政治(長州や薩摩出身者中心の政治のこと)であるとして批判されていました。吉野作造によって民本主義の考えが提唱される中、1910年代中頃に普通選挙制度実現を求める「普選運動」が起こります。時を同じくして、美濃部達吉が「天皇機関説」を提唱。これは明治憲法に記載された天皇主権について、天皇を国家の一機関であると解釈することで民本主義的な考えを肯定するものでした。

一方、1923年に起こった虎の門事件を原因として、当時の山本権兵衛内閣が総辞職します。その後組織された内閣の大臣がほとんど貴族議員だったことに反発の声が強まり、「第二次護憲運動」が始まりました。これらの運動により1925年、「普通選挙法」がとうとう制定されることとなったのです。

「大正デモクラシー」の背景とその後

江戸時代までは「士農工商」の身分制度があった日本。大正時代に入る前、日本は条約改正や日露戦争への勝利によって近代国家となりつつありました。社会や政治の制度が変わっていくその中で、人々はさまざまな自由を求めるようになっていきます。また、世界では1914年から第一次世界大戦が勃発。それに伴いデモクラシーの考えが世界中で流行するようになり、その影響を受けて日本でもデモクラシーが流行ったのです。

「普通選挙法」の制定によって満25歳以上の全男子に選挙権が与えられましたが、それと同時に社会運動や共産主義的思想を取り締まる「治安維持法」が制定。関東大震災を契機とした不況も影響し、軍国主義の気配が強まっていきました。

キーワード2 自立した女性たちによる「女性解放運動」

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前述の「大正デモクラシー」によって、すべての男性は選挙権を獲得。その一方、大正時代は女性による運動も活発でした。大正時代のうちに女性参政権獲得には至りませんでしたが、その運動によって法律を改正するなどの成果をあげました。

女性の職業が多様化

近代化以前の女性の職業といえば、農業がほとんどでした。大正時代には大学へ行く女性も増え、女性の社会進出が加速します。大正当時の女性が就いていた職業は、医師から雑誌記者、女性アナウンサーまで実にさまざま。職業の多様化が進み、職場には女性が増えていきました。社会進出した女性たちは「職業婦人」と呼ばれ、新しい時代の象徴となります。

当時人気だったのは、エレベーターガールやバスガイドといった花形の職業。保守的な人々からの職業婦人に対する批判もありましたが、働く意思を持った女性たちは給料を貰い、自立した生活を送るようになりました。

「女性解放運動」をリードした人たち

大正時代になる直前の1911年、「青鞜社」が平塚らいてうにより設立。「青鞜社」からは女性文芸誌『青鞜』が発刊され、婦人運動を発展させます。創刊号には「元始、女性は太陽であった」の文言が掲げられました。その後には「今、女性は月である」と続き、女性は太陽のように自ら輝くべきだ、と述べています。

1920年に平塚らいてうは市川房江らとともに「新婦人協会」を結成。協会の運動によって、1922年には女性の集会などを禁じていた「治安警察法第5条」の改正を達成します。その後も彼女たちは大正時代から昭和の戦後に至るまで活動を続けました。そして1945年には改正衆議院議員選挙法が公布されて、女性はついに参政権を獲得したのです。

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