4-4. 政宗のために…剛毅な武将として
政宗は東北で躍進を遂げましたが、その栄光も長くは続きませんでした。
豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、伊達家は抗戦と恭順と巡って対立します。片倉景綱が恭順を主張したのに対し、武の成実は徹底抗戦を主張しました。
結局、政宗は恭順を選んだのですが、後に秀吉の目を盗んで東北で一揆を扇動するなどしてこれが露見すると、彼は黄金の十字架を担いで上洛します。この時、成実はおそらく政宗に近しい血族だったということも推測されますが、人質となっているんですよ。政宗のために自らを差し出したということになるのでしょうね。剛毅な人柄でもあったのだと思われます。
ちなみに、成実の兜には毛虫の飾りがついているのですが、これは気持ち悪い意味ではなく、「毛虫のように前進あるのみ、一歩も退かない」という彼の信念を表しているそうですよ。こんなところにも、「武」の成実を感じますね。また、政宗も成実を信頼し、彼を「干城(かんじょう)」と評しました。干城とは国家を守る武人を意味しており、成実が文字通り武の要であったことを示しています。
5. 出奔と帰参の謎がありながらも、やはり政宗に仕えた後半生
成実は政宗に尽くし、政宗も成実を信頼していたはずでした。しかし、成実は突然、謎の出奔をしているのです。いったい何があったのでしょうか?そして、伊達氏に戻った彼はどんな道を歩んだのか、彼の後半生を見ていきたいと思います。
5-1. 謎の出奔!理由は!?
ところが、成実は文禄4(1595)年から慶長3(1598)年ごろの間に、突如として出奔してしまいました。
行き先は高野山とも相模(神奈川県)とも言われていますが、定かではありません。
理由としては幾つかが推測されているのですが、定説としては、成実自身が伊達の双璧であり、功績もずば抜けているにもかかわらず、席次が2番目であったことへの不満だそうですよ。というのも、1番目の席次にあった政宗のいとこ・石川義宗(いしかわよしむね)は、戦功は成実ほどでもなく、しかもその父・昭光(あきみつ)の代には一度政宗に反抗していたため、そのような一族よりも下に置かれるとなれば、成実としては大いに不満だったのでしょうね。
他には、独立大名になろうとしていたとか、諸国を巡って政宗の天下取りへの裏工作をするためだったとか、いろいろな説がありますが、今もなおはっきりとしたことは断言できないようです。
とはいえ、何も告げずに出て行ったとなれば大問題。主のいなくなった城は政宗の家臣によって接収されたのですが、これに対して残っていた成実の家臣たちが抵抗し、討ち取られてしまうという悲劇もありました。
5-2. 帰参を許され、再び重臣となる
出奔していたため、成実は関ヶ原の戦いの際には不在となりました。この間にも徳川家康に仕えようとしたり、他のところから家臣に招かれたりしていたようですが、どれもうまくいかなかったようです。上杉景勝(うえすぎかげかつ)から「5万石で家臣に迎えよう」という破格の条件が提示されたとも言われていますが、成実は「本来ならば私の家臣となるべき奴にどうして仕えねばならないのだ!」と一蹴したそうですよ。父・実元が上杉氏に養子入りしていれば、成実もまた上杉の当主となっていたかもしれませんから、そんなことが背景にあったうえでの発言だったかもしれません。
そして、片倉景綱ら政宗の側近たちが成実の説得に当たり、ついに彼は政宗のもとに戻ることになりました。この時に特に処罰はなかったようなので、政宗もずいぶんと懐が広いことですよね。
5-3. 亘理城主として内政に手腕をふるう
帰参した成実は、すぐに南の要害・亘理城(宮城県亘理町)を任されました。このことからも、政宗からの信頼に変わりがなかったことがわかります。
その後も、内政に尽力し、城下町の整備や治水工事、新田開発を行い、当初は6千石でしかなかった石高を後に2万5千石弱にまで飛躍的に上昇させ、統治者としても非凡な才能を発揮しました。
また、政宗の娘・五郎八(いろは)姫と徳川家康の六男・忠輝(ただてる)との婚礼の使者となるなど、伊達家にとっては欠かせない存在であり続けました。
5-4. 伊達の元勲として偉業を伝える
片倉景綱は大坂の陣終結直後に亡くなり、政宗もまた寛永13(1636)年に亡くなりましたが、成実は伊達家の元勲として重鎮中の重鎮となり、伊達家に忠誠を捧げ尽くしました。
政宗の息子の名代として江戸に赴き、将軍・徳川家光に謁見した際には、人取橋の戦いの思い出を語り聞かせ、家光に深い感銘をもたらしたそうですよ。彼が記した「成実記」は、政宗についても多くのことが書き残されており、後世の史料としてもとても役に立っています。
伊達の双璧として、伊達家の生き字引ともいうべき存在となった成実は、79歳まで生き永らえました。実子がなかったため、養子に迎えたのは政宗の九男・宗実(むねざね)でした。
出奔劇はありましたが、片倉景綱同様、成実もまたその人生を宿老として政宗に捧げました。彼も、伊達家の繁栄になくてはならない存在だったことは、言うまでもありません。
伊達政宗の人気の影に、伊達の双璧あり
「伊達の双璧」片倉景綱と伊達成実が、伊達政宗のためにどれほど身を尽くしてきたか、おわかりいただけたかと思います。政宗が奇抜なパフォーマンスをしたり、時に問題児ばりの行動をしたりしても、それをこの2人が受け止め、フォローに徹したからこそ、政宗は戦国時代を生き延びることができたのだと思いますね。「伊達の双璧」のすごさを感じ取っていただければ幸いです。