日本の歴史飛鳥時代

古代日本を動かした「律令制」とは?わかりやすく解説

古代日本にかつてあった律令制。 昔学校で習った人も多いかもしれませんが、その実態はよく知らないのが実情。 今回はそんな律令制について解説していきたいと思います!

そもそも律令って何?

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律令とは国が定めた法律の「律」と国が定めた民法・行政法を「令」を合わせたものです。

もともとは中国の制度でしたが、中国みたいな政治体制を目指していた日本はこの律令の制定を目指していろんな苦難がありながらも制定していくことになります。

律令をつくるためにがんばるぞ!律令制定までのプロセス

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日本が律令を制定するようになったのは当時の外交や日本の近代化を目指そうとした当時の朝廷の思惑が絡んでいました。どうして朝廷は律令の制定を急いだのでしょうか?その謎に迫ってみようと思います。

大化の改新による改革のスタート

律令制を導入する以前、日本では基本的にまじないによる統治が行われていました。しかし、時代が経つにつれて徐々に朝廷による支配が行われていくようになり、そして東アジアの大国である隋や唐といった国々と同じような国づくりを行っていこうと考えていくようになります。例えば聖徳太子などは冠位十二階や十七条の憲法といった整備を行っていきましたが、こうしていくうちに壁にぶつかっていくようになるのです。

この頃の日本はまだ豪族といった周辺地域を支配していた勢力の力がまだ強く、特に天皇とのつながりがあった蘇我氏がこの頃強い権力を牛耳っていました。

しかし、これでは朝廷を中心とした国づくりを行うことができない。そこで皇族の中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏の当主であった蘇我入鹿を暗殺。いわゆる645年の乙巳の変によって蘇我氏を排除することに成功したのでした。

こうして蘇我氏の排除に成功した中大兄皇子と中臣鎌足は大化の改新という日本のこれからの指針をまとめた改革案を出して唐のような中央集権国家を形成していこうと意気込んでいくようになったのです。

白村江の戦いの衝撃

乙巳の変ののち、中大兄皇子は皇太子として天皇を補佐する役目に任命され、改革をどんどん実行。摂津国の難波長柄豊崎宮に遷都したり、東日本に住んでいた蝦夷を討伐したり、日本の制度を整えたりするなどの改革を次々と実行していきました。

しかし、そんな日本にいきなり大ピンチが。なんと日本の友好国であった百済が滅ぼされてしまい、その援護に向かっていた日本軍がなんと唐・新羅軍に大敗北を喫してしまったのです。

これによって日本は朝鮮半島の足がかりを失ってしまい、さらには東アジアの大国である唐と敵対する仲となってしまったのでし。

このままいけば日本は滅亡の危機。そこで中大兄皇子は都を滋賀県の大津に遷都し、さらには防人や水城といった防衛組織も設立して唐に対抗しようとしたのでした。

唐はこの頃則天武后の混乱もあって日本に攻めることはありませんでしたが、日本が唐に敗れたことは中大兄皇子をはじめ日本中に衝撃を与えたのは事実だったのでしょうね。

日本初の令の制定

中大兄皇子は白村江の戦いの後に近江宮にて天智天皇として即位。そして大国である唐に習って律令を制定する動きが見られていくようになります。

まず天智天皇は新しい戸籍である庚寅年籍を作成して国民から田んぼを貸し与えてその税を徴収する班田収授法を確立。

さらに天智天皇は中臣鎌足と共に唐の律令を参考として近江令を発令。この律令はまだ不完全なところが多かったものの、これから制定されることとなる律令の走りとなるようなもので日本の律令制度の第一歩となる出来事でもありました。

しかし、この改革は天智天皇の崩御によって頓挫。そして時代は古代日本最大の内乱へと変わっていくことになるのでした。

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