若くしてアメリカへ渡った忠順
1827年に江戸で生まれた小栗忠順(おぐりただまさ)は、三河以来の旗本の家に生まれました。やがて23歳という若さでアメリカ大陸へ渡ることになるわけですが、その貴重な体験が彼の行動の原動力となりました。そして彼の波乱の生涯はここから始まります。
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「秀才」と持て囃された少年時代
1827年、江戸の駿河台にあった小栗家。忠順は譜代旗本の12代目として誕生しました。幼名は剛太郎。そもそも小栗家は徳川松平氏の古い家臣とされていて、戦国時代に小栗忠政が家康の小姓として仕え、その槍働きで大いに活躍。小栗党と呼ばれる一族郎党を率いて戦場を駆けまわったといわれていますね。やがて武蔵国足立郡(現在のさいたま市大宮区)や上野国などに所領を得て、代々続いてきました。
忠順は幼少の頃から「秀才」「俊才」と持て囃され、学問だけでなく剣術・銃術・砲術などに非凡な才能を発揮したといわれています。しかし性格はかなり負けん気が強く、意地っ張りで頑固な一面も持ち合わせていました。たびたび他の人間と衝突しては諍いを起こし、年長者から叱責されることも多かっただったようです。
13歳の頃、初めて「開国論」に触れる機会を得ました。当時の日本はまさしく鎖国の時代。それゆえ優れた外国文化に興味を惹かれたのではないでしょうか。
「数百年来変わることがなかった日本だが、このままで良いわけがない。外国の優れた文明や文化をもっと吸収するべきだ。」
この考えが彼の行動原理となっていくのです。
黒船来航に衝撃を受ける
忠順は17歳になると江戸城へ出仕し、両番組という役職に就きました。いわゆる将軍直属の親衛隊のようなもので、若くして大抜擢を受けたわけです。しかし彼の負けん気と融通の悪さは、やはり周囲と軋轢を生んでしまい、たびたび役を外されています。しかし忠順ほどの俊才はいません。たいていはすぐに復帰していたようですね。
現在の豊島区駒込に、播磨国林田藩主建部家の屋敷がありました。忠順はこの屋敷に頻繁にやって来ていたらしく、藩主の建部政醇(たけべまさあつ)と昵懇の間柄だったといいます。
忠順が14歳の時、キセルで煙草をくゆらせながら政醇と開国論を論じました。
「日本は鎖国をやめ、開国を推進し、大船を建造して海外へ積極的に進出するべきだと思います。」
14歳で煙草を吸うことにも驚きますが、聞いていた家臣たちは「どうせ子供の言うことだから」と半ば呆れていました。ところが政醇だけは真顔で話しに聞き入り、心底感心したといいます。
「この将来有望な少年に、私の娘を娶せてやろうじゃないか。」と。
こうして忠順23歳の時、政醇の娘道子が輿入れしてきたのでした。
時は過ぎて1853年、マシュー・ペリー率いる黒船が日本に修好を求めるべく浦賀にやって来ました。忠順はその場に居合わせなかったのですが、その事実を伝え聞いて驚愕しました。当時の日本にまだ蒸気船というものがなく、艪や帆を用いた動力しかなかった時代です。山のように大きな黒船が、凄まじいスピードで航行する姿を思い浮かべただけで身震いがする思いでした。
その後、彼は異国船の詰警護役を仰せつかることになりますが、日本は一刻も早く開国して、海外の優れた技術を導入するべきだと心を新たにするのでした。
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アメリカへ渡り、発達した文明を目の当たりにする
1855年、父の死去に伴って小栗家の家督を継ぎました。すでに前年には日米和親条約が締結されて鎖国政策は終焉を迎え、下田と函館が開港しました。
日米修好通商条約批准のために遣米使節団が編成されますが、忠順はそのメンバーに選ばれています。1860年、米艦ポータハン号に乗船した使節団一行は横浜を出港。ほぼ時を同じくして、勝海舟や福沢諭吉らを乗せた咸臨丸もアメリカへ向けて出発していますね。
およそ2ヶ月かけてサンフランシスコへ到着。忠順ら使節団の面々が見たのは、日本とはまったく違う光景でした。見たこともない高層建築が立ち並び、蒸気機関車が走り、多くの人々が行き交うさまは、いかに日本が遅れているかを見せつけられました。
何より忠順が感心したのは新聞です。日本にも瓦版はありましたが単なる読み物に過ぎません。その点、新聞は出来事を迅速に正確に報道し、写真まで掲載されています。多くの人々がニュースを共有することによって、個人で物事を考えるという習慣が発達していたのでした。感銘を受けた忠順は帰国後、さっそく幕府に新聞刊行を献策していますね。
引き続きフィラデルフィアで通貨交換比率の見直し交渉が行われました。貨幣交換レートに関して日本の小判の方が不利であり、その不平等是正に臨んだのです。結局認められることはなかったものの、忠順の真摯で実直な態度はアメリカの人々に好感と感銘を与えました。新聞なども彼を絶賛していますね。
帰国後、忠順は功を認められて外国奉行に就任しました。
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