日本の歴史江戸時代

鍋島直正の藩政改革により幕末屈指の雄藩となった「肥前藩」を元予備校講師がわかりやすく解説

佐賀市がある佐賀平野に位置する佐賀城。この城は、江戸時代を通じて肥前(ひぜん)藩の居城が置かれていた城です。幕末、英主とたたえられた鍋島直正(閑叟)に率いられ、幕末随一の軍事力を誇りました。なぜ、九州の外様大名である肥前藩がそのような力を持つことが出来たのでしょうか。今回は肥前藩の成り立ちと鍋島直正の藩政改革、維新期の肥前藩の動向などについて、元予備校講師がわかりやすく解説します。

肥前藩の成立

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室町時代、佐賀を含む肥前の地は守護大名である少弐氏の支配下にありました。戦国時代、肥前の国人だった龍造寺隆信が少弐氏を滅ぼして肥前の戦国大名となります。隆信が島津氏との戦で敗死したのちは、隆信のいとこにあたる鍋島直茂が龍造家の実権を握りました。龍造家と鍋島家の争いは江戸時代まで続き、鍋島騒動と呼ばれるようになります。

肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信

龍造寺隆信は肥前など九州北部に勢力を伸ばした戦国大名です。隆信は支配した領土から「五州二島の太守」とよばれ、その勇猛ぶりから「肥前の熊」ともよばれました。

隆信の祖父や父は肥前の守護大名少弐氏の重臣馬場頼周によって殺害されました。隆信は預けられていた寺から曾祖父の家兼に連れられて脱出します。1546年、隆信は家兼とともに蒲池鑑盛の支援を受け、馬場を倒し龍造寺家を再興しました。

家兼の死後、隆信は勢力を拡大し、かつての主家である少弐氏を攻め滅ぼすことに成功。佐賀平野を中心とする肥前国の支配者となります。

戦国時代後期、九州地方は肥前の龍造寺氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏が3強としてしのぎを削りました。1584年、隆信は島津氏と沖田畷で戦います。この時、島津家久の巧みな用兵により隆信は敗北。討ち取られてしまいました。

龍造寺家の実権を握り、肥前藩をつくりあげた鍋島直茂

隆信の死後、龍造寺家の実権を握ったのが重臣の鍋島直茂です。直茂は隆信のいとこですが、隆信の母が直茂の父と再婚したため、隆信の義理の弟にもなりますね。隆信は身内の一人として直茂を信頼しました。

1570年、大友氏が肥前に侵攻した今山の戦いのとき、籠城を主張する人々をしり目に、大友軍に対する奇襲攻撃を提案。隆信を説得し、大友軍を夜襲しました。不意を突かれた大友軍は潰走し、龍造寺軍が勝利します。

隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、跡継ぎの龍造寺政家を補佐して龍造寺家の実権を握りました。豊臣秀吉が大軍を率いて九州征伐を行うと直茂は秀吉に従いました。

その結果、主君である政家とは別に秀吉から領地を与えられ、肥前国の国政を主導することを認められます。関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、徳川氏(江戸幕府)から肥前の支配権を公認されました。

鍋島騒動

隆信の死後、政家は病弱だったため、国政は鍋島直正が主導します。秀吉や家康は直茂を肥前国主として遇し、龍造寺家は名目的な主君となっていました。政家の子である龍造寺高房は、こうした状況に絶望し、妻を殺して自分も自殺未遂を図ります。

家臣たちが負傷した高房の自殺を止めたため、高房の自殺は失敗しました。命は助かった高房ですが、今度は精神を病んでしまいます。その結果、再び高房は自殺を試み、今度は自殺に成功してしまいました。

高房の二人の子は龍造寺家の再興を幕府に願い出ますが、却下されてしまいます。この一連のお家騒動を鍋島騒動といいました。江戸で死んだ高房は火葬され、遺骨は佐賀城下の泰長院に葬られます。

このころ、高房の亡霊が白装束で馬にまたがり城下を駆け回るといううわさが流れました。そのうわさがもとになり、高房の猫が直茂父子を殺そうとする鍋島の化け猫騒動の物語が作られたのでしょう。

直茂は81歳の高齢でなくなりますが、死ぬ前に耳の腫瘍で苦しんだといいます。これも、高房の祟りと噂されました。

鍋島直正による藩政改革

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江戸時代、肥前藩鍋島家は幕府から長崎警備を命じられるなど財政負担が重い藩でした。1830年に直正が藩主となったとき、藩財政は危機的な状況にありました。直正は倹約令で支出を減らすとともに、均田制の実施や産業振興など大胆な手法で藩財政を立て直しました。その一方、藩校の弘道館で人材を育成しつつ、西洋技術を積極的に取り入れ肥前藩を幕末屈指の強力な藩へと育て上げます。

危機的な藩財政

江戸時代後半、幕府をはじめ多くの藩は財政難に苦しんでいました。肥前藩も例外ではありません。鍋島直正が藩主となり、江戸から肥前に帰ろうとしたときのこと。金を貸していた商人たちが直正一行を引き止め、借金返済を迫りました。そのせいで、直正は大名行列をとめられるという屈辱を味わいます。

藩財政が悪化した理由は、長崎警備経費のほかに先代藩主の贅沢や肥前を襲ったシーボルト台風による被害などもありました。

直正は藩政改革の必要性を痛感しましたが、父である斉直が隠居とはいえ健在であり、斉直の保守的な側近達が改革に反対するのは明白でした。

直正が藩政の主導権を握ったのは佐賀城の火災処理のあとのこと。本丸御殿再建を理由に、役人のリストラや商人たちに8割の債権放棄などをせまり、支出を減らすことに成功しました。

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