室町時代戦国時代日本の歴史

伊達政宗の家臣「片倉景綱」「伊達成実」とは?伊達の双璧をわかりやすく解説

3-4. 時に強烈な物言いで相手をたじたじに

政宗が秀吉のもとに弁解に向かうときには、白装束を着てみたり、黄金の巨大な十字架を担いでいったりと、「伊達な男」の由来となったド派手なパフォーマンスが付き物でした。

一説にではありますが、これを考えたのは景綱だとも言われているんですよ。だとすれば、相当な知恵を巡らせてのことだったわけですよね。

また、厳しいお咎めがなかったことで、秀吉子飼いの武将・福島正則(ふくしままさのり)は政宗をやっかみ、政宗と景綱に出くわしたときに「無鳥島(むちょうとう)のコウモリだな!」と皮肉を言ったそうです。この言葉は、織田信長がかつて四国の雄・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を評した際に使ったものなのですが、これは「田舎者」であるとか「井の中の蛙」という意味があり、正則もまた東北でのみ勢力を拡大し、天下争いに加わることができなかった政宗を皮肉ったのですね。

それに対して、景綱は冷静に「あなたは『ちんちくりんりん』の『りんりん』ですな」とやり返しました。

これは、「ちんちくりん」を「秀吉」、「りんりん(鈴)」をやっかんだ武将に見立て、「あなたはサルの腰巾着ですな」と痛烈に言い返したわけなんです。暗に秀吉に対してさえも強烈なことを言っているわけで、景綱の辛辣さと頭の回転の良さを示す逸話ですね。

3-5. 大坂の陣の推移を予言していた?

大坂の陣の時には、景綱は病に倒れ、出陣もままなりませんでした。一説には糖尿病だったとも言われており、太ってしまっていたようです。そんな彼を見舞った政宗は、「かように太っていては、重い鎧は着られぬだろう」と言い、軽い鎧を送りました。あえて軽い物言いをしたことで、景綱を元気づけようとしたのだと思います。

このとき代わりに政宗に従ったのが、政宗より早く男児に恵まれては申し訳ないと、生まれる時に景綱に殺されそうになったあの息子・重長です。自分が戦場に出られない無念を隠し、景綱は息子にこう助言しました。

「この戦いは、一度は和睦となり、きっと塀を壊すか堀を埋め立てるはずだ。しかし必ず再戦となるだろうから、一戦目は兵を温存し、ほどほどに戦うように」

百戦錬磨の景綱だからこその鋭い先見の明です。果たして、大坂冬の陣が和睦となり、堀を埋め立てた後に大坂夏の陣が起こることとなり、彼の目が正しかったことを証明しました。

3-6.  子孫は今もなお政宗を祀り、守り続けている

景綱の言いつけどおり、息子の重長は大坂の陣で活躍し、真田信繁(さなだのぶしげ)の遺児を保護するなど、重要な役割を果たします。

そして大坂の陣が終結し、息子が主君・政宗を支えるに足る人物に成長したことを見届け、景綱は元和元(1615)年、59歳で亡くなりました。

景綱の子孫は、後に政宗を祀る青葉神社の宮司となります。今もなお、子孫が政宗を守り続けているというのは、絆の強さを感じさせますね。

4. もうひとりの「伊達の双璧」伊達成実

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片倉景綱を政宗の右腕とするならば、伊達成実は左腕といったところかもしれません。「伊達の双璧」として政宗のそばに控えた彼は、名字が示す通り、政宗とは血族でした。政宗とほぼ同年ながらも武の要となり、伊達勢の先頭に立った彼は、どんな役割を果たしたのでしょうか。

4-1. 政宗とは近しい親族

伊達成実は、永禄11(1568)年に誕生しました。政宗の1歳下となります。

父・伊達実元(だてさねもと)は政宗の祖父・晴宗(はるむね)の弟であり、母は晴宗の娘となるため、政宗とは近しい親戚関係でした。年齢も近いということで、信頼感はあったかと思われます。

ところで、本来、実元は上杉家に養子に行くはずでした。しかし伊達家中で晴宗の父・稙宗(たねむね)と晴宗が争う天文(てんぶん)の乱が起きてしまったためにこの話は頓挫してしまい、結局実元は伊達家に残ります。世が世ならば、成実は上杉家の人間になっていたかもしれませんね。

そして成実は天正11(1583)年に16歳で家督を継ぎ、父と共に政宗を支えていくことになりました。

4-2. 片倉景綱と同様、政宗を命がけで救う

政宗の父・輝宗は、二本松義継(にほんまつよしつぐ)に拉致され、それを追撃した政宗によって敵もろとも撃ち殺されてしまいます。その後、政宗は周辺に勢力との合戦に臨みますが、人取橋の戦いで大敗を喫してしまいました。この時、片倉景綱は政宗のふりをして敵をひきつけましたが、成実もまた、500の兵のみで戦場に踏みとどまり、政宗を逃がしているのです。

政宗はこの戦いの中、疲労困憊となった自分の馬に水を飲ませようとして川へと乗り入れますが、そこを敵に狙われ、馬を御する兵がやられてしまいました。これでは大ピンチですが、そこに駆けつけたのが成実。彼が馬の尻を叩いて川から上げると、政宗はバツが悪そうに「馬を助けようとしたばかりに、ちと失敗してしまったと呟きます。すると成実は「無茶をおっしゃいますな。矢が雨のように降り注ぐほどなのですから、くれぐれも流れ矢になど当たらないでください。私はこれから、少々敵を黙らせてきます」と、馬を返して敵中に突入し、一気に蹴散らしたのでした。

成実と片倉景綱の2人があってこそ、後の政宗があるというわけになりますよね。

4-3. 政宗のために働き、武の中心として成長する

その後、何とか態勢を建て直した政宗は、再び周辺への勢力拡大を図りますが、この時に成実は若いながらも調略を駆使し、敵対勢力を味方につけるなど大いに貢献しています。この頃の政宗の周りは敵だらけといっていい状況で、昨日の友が今日の敵というのは珍しくもありませんでした。蘆名氏や相馬氏と郡山合戦でしのぎを削りながらも、成実は、一度は伊達を裏切っていた大内定綱(おおうちさだつな)を調略によって味方につけ、形勢逆転して見事勝利を呼び込んだのです。まだ21歳という若さでこの実力とは、末恐ろしいほどですね。

やがて、蘆名義広(あしなよしひろ)とは再び激突することとなり、摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)が起きますが、ここでも成実は活躍します。すでに内部崩壊を起こしかけていた敵の情勢を察し、そこにつけこんで勝利に導いたのです。こうして成実は、武の面で政宗陣営の重鎮となっていったのでした。

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