室町時代戦国時代日本の歴史

伊達政宗の家臣「片倉景綱」「伊達成実」とは?伊達の双璧をわかりやすく解説

2-2. 政宗を変えた男・景綱

景綱は政宗の小姓となり、常にそばにあって彼の成長を見守り、仕えてきましたが、政宗は幼い頃に患った疱瘡の影響で右目が潰れてしまっており、それに大きなコンプレックスを抱いていました。とても内向的な少年になってしまい、家督を継ぐには心もとないという声もあったようです。一説にはこのことで母・義姫(よしひめ)の愛情が弟の小次郎に移り、確執となったという説もありますが、実際にはそこまでの亀裂ではなかったようですね。

しかし、政宗が右目に負い目を持っていたことには変わりなく、言い伝えによると、景綱は自らその右目をえぐり取り、政宗をコンプレックスから解放したそうなんですよ。激痛のあまり意識を失いかける政宗に、戦で眼に矢を受けても戦い続けたという鎌倉景政(かまくらかげまさ)の故事を語って聞かせ、励ましたと言われています。真偽のほどは不明ですが、彼が政宗を常に支えて励まし、性格まで変えた存在だったことは言うまでもありません。

2-3. 政宗のためなら自分を実験台にもする

景綱は、政宗のために尽くすというエピソードに事欠きません。

ある時、腹のできもので困った政宗は、焼きごてを当てて取り除くことを思いつき、景綱にそれを頼みます。

しかし、激痛を伴うことは想像に難くなく、そこで景綱は、まず自分で試してみたのです。自身の腿に焼きごてを押し当て、どうにか耐えられると判断してから、彼は政宗に対して同じことをしたんですよ。

それでも政宗は痛かったそうで、景綱の姿が二重に見えるほどだったと言います。1ヶ月ほどで政宗の傷は治りましたが、景綱が負った火傷は完治までに2ヶ月かかったそうですよ。しかも、景綱はその傷の後遺症が治らず、その後も乗馬する時には足が引きつってしまったとか。

2-4. 政宗に遠慮しすぎて子供を殺そうとする

また、こんな極端な話もあります。

政宗より先に妻を迎えた景綱ですが、妻がみごもると、「主に男子が生まれてもいないのに、もし自分が先に男子を持ってしまったら、家臣として申し訳が立たない。ならば、生まれた子が男子ならば殺すしかない!」と言い出し、周囲を慌てさせました。政宗より10歳も年上なのですから、先に子供ができても何の不思議もないのですが…。

これを聞きつけた政宗も驚き、「どうか殺さないでくれ」と止めたおかげで、景綱には無事男子が生まれたのです。この子が後の片倉重長(かたくらしげなが)で、父同様の忠臣として仕えていくことになります。

政宗のためなら何をするのもいとわない忠実すぎるほどの忠義の人物だったことがわかりますね。

3. 「智」の小十郎として政宗の片腕となる

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政宗の幼い頃から常に行動を共にしてきた景綱は、まさに政宗の右腕といっていい存在でした。そして、冷静沈着な彼の知謀は、政宗の躍進に大きな貢献を果たしたのです。「智」の小十郎として政宗を支える彼の戦いぶりを見ていきましょう。

3-1. 主のふりをしてその危機を救う

天正13(1585)年、景綱は政宗に従い、人取橋の戦いに臨みます。前年に政宗の父・輝宗が非業の死を遂げており、政宗は弔い合戦として仇の二本松氏に戦いを挑んだのですが、その二本松氏を救援するという名目で、常陸(ひたち/茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ)が蘆名(あしな)氏などと連合し、攻め込んで来たのです。その数は、伊達勢の4倍以上ともされる大軍でした。

このため、政宗軍は大敗を喫してしまいます。多くの武将が命を落とす中、景綱はとっさに自分が政宗のふりをし、「小十郎ひるむな!政宗はここにおるぞ」と叫んで敵を引きつけ、政宗を逃がしたそうです。

3-2. 調略を駆使し軍師的存在となっていく

その後も景綱は相馬(そうま)氏との郡山合戦や蘆名氏との摺上原(すりあげはら)の戦いにも加わり、政宗の勢力拡大に貢献していきます。景綱と、後にご紹介する伊達成実という「伊達の双璧」の成長など若い世代の成長と台頭により、政宗の勢力はさらに増していくこととなるのです。こうした中で、景綱は智謀を生かして調略(ちょうりゃく/謀り事や交渉で敵を仲間に引き入れる)を行い、まさに「智」の小十郎として政宗の軍師的役割を存分に果たしていくのでした。

3-3. 政宗の命運を左右した的確なアドバイス

政宗の頭脳となった景綱は、政宗の命運を左右する局面でも的確なアドバイスをしています。

豊臣秀吉が小田原征伐を開始し、諸将に小田原への集結を命じた時のこと。

伊達家では、秀吉に恭順するか、はたまた徹底抗戦するかで揉めに揉めたのです。すでに大幅な遅刻は否めず、秀吉に会ってもどんな扱いを受けるかわからない状態でしたし、何より伊達家は東北を手中に収めようかという勢いだったため、それならば戦った方がいいという者も多かったんですね。伊達成実などは抗戦派でした。

しかし景綱は、冷静に恭順を主張しました。

「秀吉の軍は大軍で、いくら叩いても後から後からハエのように沸いてきます。敵うわけがありません」

常に支えてくれる彼の言葉は、政宗にいちばん大きく響きました。結局、政宗は景綱の言葉を受けて小田原へと向かい、秀吉に恭順の意を示し、なんとか許されたのです。所領の大幅な没収はありましたが、結果的に伊達家はこれで命運を永らえることになったのでした。

後に、秀吉は景綱の知謀を見込んで、ヘッドハンティングをかけました。しかし景綱は政宗への忠義を尽くすため、丁重に断ったそうですよ。そして、伊達氏の対外交渉を一手に引き受け、代わらぬ忠誠を政宗に捧げたのです。

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