なぜ起きた?坂下門外の変が起きるまでの流れとは
260年もの間続いた徳川幕府が揺らぎ始め、不穏な空気に包まれていた幕末日本。様々な事件や出来事が続き、状況は刻一刻と変化していきます。そんな中起きた「坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)」。尊王攘夷派が老中・安藤信正を襲撃するという重大事件に、日本はますます不安定になっていきます。どうしてこんな事件が起きてしまったのか、「坂下門外の変」が起きるまでの流れを見ていきましょう。
幕府内部抗争?将軍継嗣問題で揺れる江戸の町
1853年の黒船来航以来、日本は大きく揺らいでいました。
そんな中、徳川幕府では「将軍継嗣問題」が勃発。次の将軍を誰にするかで、幕府の重臣たちが揉め始めたのです。
この非常時にくだらないことを……と思うなかれ、異国の脅威が迫る中、誰が将軍になるか、これは幕府にとって非常に重要な問題でした。
何せ、十三代将軍徳川家定が奇行を繰り返す変人でひどい問題児将軍だったため、異国の脅威に立ち向かうためにも、次の将軍選びは失敗できません。家定が病弱で世継ぎがいなかったため、内々に後継者選びを進めていたのですが、幕府内で意見が分かれ、内紛に発展してしまったのです。
派閥は主に2つ。紀州藩主だった徳川慶福(とくがわよしとみ)を推すグループと、一橋家の徳川慶喜を押すグループです。
徳川慶喜は家康の再来といわれるほど優秀でカリスマ性を持つ、リーダーにふさわしい人物。異国と対等にやりあうことができそう、と、薩摩藩の島津斉彬をはじめ多くの大名たちが慶喜に期待を寄せていました。
一方の徳川慶福グループの筆頭は井伊直弼。すったもんだの末、大老になった井伊直弼が半ば強引に徳川慶福(家茂と改名)を十四代将軍に据えます。
こちらの記事もおすすめ
病弱なのに問題が山積み…13代将軍「徳川家定」の生涯と激動の時代を元予備校講師がわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
井伊直弼と日米修好通商条約と安政の大獄
幕府は井伊直弼の天下状態。勢いに乗った井伊直弼は、天皇の意向を聞かず、勝手にアメリカと日米修好通商条約を結んでしまいます。
忘れてはいけません。幕府は朝廷(天皇)から任命されて、政権をお借りして政務にあたっているのです。いくら江戸時代の朝廷がお飾り状態で何もしてこなかったとしても、国の一大事を幕府だけで判断して進めてよいわけがありません。
これに腹を立てたのが孝明天皇でした。
将軍継嗣問題で辛酸をなめた一橋グループも、井伊直弼に対抗しようと朝廷に接近します。
しかし井伊直弼の勢いは止まりません。吉田松陰や橋本佐内など、自分たちのやり方に反対する人たちを弾圧し、批判を封じ込めようとします。これが世にいう「安政の大獄(あんせいのたいごく)」です。
こちらの記事もおすすめ
何が不平等?「日米修好通商条約」を条文から読んでみよう – Rinto~凛と~