室町時代戦国時代日本の歴史

「元の木阿弥」の由来は?元となった筒井家とその誕生秘話を解説!

なにかいいことを起こしたものの、いつしか元の状態となってしまったときに使うことわざである元の木阿弥。実はそこに木阿弥に関するとあるエピソードがあったのです。 今回はそんな元の木阿弥の誕生秘話についてみていきましょう。

元の木阿弥とはどんなことわざ?

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元の木阿弥というのは簡単に言えばこれまで上手くいっていたことが、いつしか元の状態に戻ってしまったことを指すことわざです。

例としてあげるのであればせっかくダイエットに成功したのに甘いものを食べ過ぎてリバウンドする。これが典型的な元の木阿弥の状態ですね。

しかし、木阿弥ってどういう意味なんでしょうかね?実はこのことわざにはとある人物の仕方ない事情があったのです。

大変だ!筒井家最大のピンチ!

昔々、戦国時代には大和国(奈良県)という場所に筒井家という小さな家が存在していました。

元々筒井家というのは大神神社の神官の家系だったのですが、いつしか大和国の筒井という場所で豪族にまで発展し、その筒井という場所を名字にして筒井氏と名乗り始めました。大和国という場所は興福寺や東大寺のような仏教徒がすごい力を持っていた地域でもあり鎌倉時代に入るとその大和国は興福寺が務めるようになったのです。しかし、室町時代の時代に色々な戦乱が巻き起こると興福寺の権力が衰退。その代わりに大和国の豪族であった4つの家が互いに争い合うという時代に突入していったのです。

そんな中、筒井家は興福寺の配下として活躍しながら勢力を拡大。越智家などを滅ぼして勢力を拡大すると筒井順昭という人が家督を継ぎお隣の河内国までその勢力を広げるまでになりました。

しかし、この筒井順昭はかわいそうなことに大和国を統一してひと段落したところで急死。わずか2歳の筒井順慶という一人息子を残しての死去でした。

もし、大和国を統一したばかりで筒井家の頭首がなくなったという報告を他の家が聞いたらチャンスと感じてたちまち攻めにかかるのは当然のこと。

そこで筒井家の家臣はとある人を影武者として筒井順慶が育つまで代理として立てようと計画し始めたのでした。

元の木阿弥の誕生

筒井順昭は自分の死期を感じて家臣一同を呼び寄せます。順昭は家督争いが起きないように息子の順慶に忠誠を誓わせた後、とある人を影武者として立てることを宣言しました。ここで現れたのが木阿弥。木阿弥は元々寺院で修行していた盲目の僧だったのですが、その人の姿がまぁ順昭にそっくり。さらに声も似ていたこともあり1550年に順昭がなくなると予定通り木阿弥を順昭の影武者として扱い始めたのです。

しかし、影武者といっても名目は大和国を完全に支配下に置いた筒井家の当主。その生活ぶりも順昭が行なっていたものをそっくりそのままやることができるようになり木阿弥は単なる一介の盲目の僧から一気に一国一城の主にまで上り詰めたのでした。

しかし、木阿弥の役割はあくまでも代打。筒井順慶が成人して筒井家の当主としてふさわしいものとなると影武者入らなくなり木阿弥は用済みとなるので筒井家の家臣は木阿弥を再び僧に戻しました。

こうして贅沢の限りを尽くした木阿弥の生活は一気に逆戻り。このことが由来で「いい結果を生んだのに最終的には元通りになる」という意味の元の木阿弥ということわざが誕生したのでした。

 

他にもある元の木阿弥の由来

さて、ここでは木阿弥が影武者となったことで贅沢な暮らしができたのに、最終的に元どおりになったことがことわざの由来となったとしましたが、実はその他にも元の木阿弥の由来となったことわざはたくさんありました。

例えば木阿弥という僧侶が妻と別れて厳しい修行をしていたのに妻の元に戻ったことで長年の修行が台無しとなったという説からや、朱塗りの茶碗が元の茶碗に戻りそこから元の木阿弥に変わっていったという説もあります。

筒井順慶のその後

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木阿弥という僧をたててなんとか家を守り抜こうとした筒井家でしたが、その後は苦難の歴史を歩んでいくこととなります。

次は筒井順慶が果たしてどのような人生を送って行ったのかについて見ていきましょう。

 

筒井城の奪還戦

なんとか影武者をたてて騒動を無くそうとしましたが、1559年にこの頃機内で強い勢力を持っており天下人として名を知らしめていた三好家が大和に侵攻。協力相手がどんどん相手になびいていき苦境に立たされ、1565年にはなんと居城であった筒井城を追われてしまうという事態に追い込まれてしまいました。

しかし、筒井順慶はこんなことではへこたれず協力者の元に身を寄せて三好家に反抗。ちょうどこの頃三好家では松永久秀が離脱したこともありゴタゴタ状態となっていてそこにつけこんだ筒井順慶はなんとか筒井城を奪還。

ここから筒井順慶は松永久秀と激しい抗争を展開していき、なんと1567年にはその争いに巻き込まれて東大寺の大仏殿が焼失するという事態まで起こしてしまいます。

こんなことをしながらも粘り強く抵抗していた筒井順慶でしたが、1568年には尾張国からまた新たなる天下人がやってくることになるのでした。

松永久秀との抗争

1568年美濃や南近江を手中に収めた織田信長が京都に上洛。足利義昭を将軍に据えて実質的な後見人として日本中にその名を轟かせました。

しかし、この信長の上洛に出遅れたのが筒井順慶。なんと松永久秀に先を越されてしまい松永久秀の大和支配が実質的に認められるという筒井家からしたら最悪の事態を招いてしまいます。

こうして信長のお墨付きを得た松永久秀は再び筒井城に侵攻。再び筒井順慶は城を追われ各地を転々とすることになります。

しかし、武田信玄と通じていたこともあり足利義昭は筒井家との関係を強化。急激に風向きが変わった順慶は筒井城を奪還。再び返り咲いたのでした。

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