- 1.江戸時代最後の年に生まれた夏目漱石
- 1-1ちゃきちゃきの江戸っ子夏目漱石誕生
- ちょっと雑学
- 1-2夏目漱石の子供時代は孤独だった
- 1-3やっぱり優秀だった!漱石の学生時代
- 2.卒業後の漱石の人生も波瀾万丈
- 2-1正岡子規との楽しい思い出と教師生活
- ちょっと雑学
- 2-2人生で最も不愉快な2年間だったロンドン留学
- 2-3帰国後も苦難が続く漱石の人生
- 3.精神を患うも小説家として活躍する漱石
- 3-1小説家デビューのきっかけになった黒猫との出会い
- 3-2小説家デビューで人生が一変する漱石
- 3-3博士号を辞退し「ただの夏目」として生きた漱石
- 3-4漱石の最後の時
- ちょっと雑学
- 夏目漱石は、たった10年で数々の名作を残した明治を代表する小説家
この記事の目次
1.江戸時代最後の年に生まれた夏目漱石
By C2revenge – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link
江戸時代最後の年に生まれ、明治元年に1歳になった夏目漱石の幼少期はとても辛いものでした。生まれてまだ物心つかない内に養子に出されたり、それからまた夏目家に戻ることになったりと、一家団欒という家庭の温かさを知らずに育っています。それでは、子供時代の漱石を見てみましょう。
1-1ちゃきちゃきの江戸っ子夏目漱石誕生
夏目漱石は江戸時代最後の年に江戸で生まれた、ちゃきちゃきの江戸っ子です。牛込馬場下横町(現:新十九九喜久井町1番地)にあった生家跡には、昭和41(1966)年に漱石の誕生100年を記念して黒い石碑が建てられています。漱石の父は地元の名主で大金持ち。自宅の前の道に「夏目坂」と名付けており、現在もこの名前で呼ばれています。
夏目漱石は慶応3(1867)年2月9日に、50歳の父直克(なおかつ)と40歳の母千枝(ちえ)の間に生まれました。漱石という名前は、小説家としてのペンネームで、本名は「夏目金之助(なつめきんのすけ)」です。誰かは不明ですが中国に、漱石枕流(そうせきちんりゅう)」という言葉があり、漱石という名はここからきています。
「石を枕にし、川の流れで口をすすぐ。」というところを、「石に漱(くちすす)ぎ、流れに枕す。」と間違えた時に、「石に漱ぐのは、歯を磨くため。水の流れに枕するのは耳を洗うため。」といってごまかしたことから、頑固や負けず嫌いを表す「漱石枕流」という四字熟語ができたとか。漱石は、自分の性格にピッタリと思いペンネームにしたようです。
ちょっと雑学
生家の隣は、赤穂浪士ゆかりの地といわれています。それは、延宝6(1678)年創業の「小倉屋」という酒屋です。赤穂浪士四十七士のひとりで、剣の達人と称される中山安兵衛(後の堀部安兵衛ほりべやすべえ)が、叔父の仇討ち「高田馬場の決闘」に遅れて向かった時にこの酒屋で枡酒を飲んで向かったとか。
1-2夏目漱石の子供時代は孤独だった
兄弟は兄が4人に姉が3人で、漱石は8番目に生まれた末っ子です。実は、望まれて誕生した子ではありません。ちょうど江戸幕府が崩壊し、夏目家も少しずつ衰退をはじめた時期でした。母に母乳が出なかったため、生まれてすぐ近所にあった古道具屋に預けられ育ててもらったようです。
2歳にならない内に、知り合いの家に養子に出されています。しかし、その夫婦は9歳の時に離婚してしまい、夏目家に戻されました。父親は出戻って来た漱石を煙たがり、可愛がらなかったようです。塩原家と実父の仲が悪くなってしまい、漱石が夏目姓に戻ったのは、21歳の時。裏事情には、長男と次男が結核で亡くなり、三男の兄も結核にかかったことで、後継ぎ問題に端を発し夏目姓に戻れたとの説もあります。
1-3やっぱり優秀だった!漱石の学生時代
家族愛に恵まれなかった漱石ですが、幼いころから成績は優秀でした。家庭環境が不安定で転校を繰り返したり、虫垂炎にかかり進級試験を受けることができず落第したりしたこともあったようです。二松学舎時代には漢学も学んでおり、正式な漢文をかける最後の世代でした。
東京大学予備門へ入るために必要な英語を学んだ時は、ずば抜けた成績を残しています。17歳の時に大学予備門に入学しました。この時に大親友の、正岡子規と出会います。大学予備門での成績は、得意の英語をはじめほとんどの教科で主席だったようです。23歳の時に、東京帝国大学(現:東京大学)英文学科に見事入学しました。
帝国大学時代の漱石は、特待生に選ばれています。英語は優秀で、学生アルバイトながらも東京専門学校(現:早稲田大学)で英語の講師をしていました。また、才能を認めていたJ・M・ディクソン教授に『方丈記』の翻訳を依頼されたほど。正岡子規も帝国大学に合格しましたが、彼は中退しています。在学中は、子規と二人で寄席に入り浸ったり、旅を楽しんだり青春を謳歌しており、自由が過ぎてちょい不良状態だったようです。予備門のころから引っ越しを頻繁に繰り返しており、この経験は後の小説の執筆に活かされています。
2.卒業後の漱石の人生も波瀾万丈
28歳の時に松山で中学校の教師となりました。その後、文部省からイギリス留学を命じられ、妻子を残し渡英するも神経衰弱に陥ります。その後、日本に帰国し教師に戻るも試練の連続で、更に精神を病んでしまいました。
2-1正岡子規との楽しい思い出と教師生活
卒業後の進路では文学の道に進みたいと思った時期もありました。家族の中でも尊敬していた兄から、「文学では飯は食えん」と反対され一度は断念しています。次に、漱石が目指した職業は、実は建築家でした。でも、友人に、「今の日本は貧乏で、ロンドンのセントポール寺院のような大建築を後世に残すことはできない。」と進言され諦めています。
卒業後は、東京高等師範学校で英語の嘱託として働きました。明治28年に、松山市の松山中学校の英語教師として働きはじめます。ちょうど松山には、実家で結核の静養中だった正岡子規がいました。ある日漱石の下宿先に、子規が居候を決め込み転がり込んできました。子規は門弟を取り、句会を頻繁に開いたとか。帰って来た漱石を、無理やり会に参加させ、共に俳句を楽しんだようです。
たった2ヶ月でしたがこの同居生活は、「学生時代にちょい不良(わる)を楽しんだ時」と同様に、漱石の心に深く残っています。でも、1分1秒の時間が惜しいというのが、子規の本当の思いでした。いつの間にか下宿先の主は、漱石ではなく俳句への思いが強かった子規のようだったとか。この松山での教師生活は、漱石の代表作のひとつ『坊ちゃん』の中に書かれています。