三英傑はほぼ同世代~信長・秀吉・家康の生い立ちを徹底比較!
戦国時代をけん引し、天下統一を目指した武将として、何かと比較されることの多い三英傑。同世代で出身地も近く、かかわりも深かったと伝わっています。歴史上もっとも有名な武将として名を連ねることも多い3人。三英傑徹底比較の足掛かりとして、まずは信長・秀吉・家康の生涯に関するいくつかのポイントについて比較してみましょう。
生誕年と出身地はほぼ同じ
織田信長は天文3年(1534年)、尾張国で生まれます。
実は織田信長の生誕地については、いくつかの説が。現在の愛知県名古屋市中区にあったとされる那古野城か、あるいは愛知県愛西市と稲沢市の間にあったとされる勝幡(しょばた)城か、いずれかのお城で生まれたという説が有力です。
豊臣秀吉は天文6年(1537年)に尾張国中村(現在の愛知県名古屋市中村区)で生まれたと伝わっています。
秀吉は足軽の木下氏の家に生まれたといわれていますが、出生について詳しく書かれた史料はほぼ見つかっておらず、はっきりしていません。
徳川家康は天文11年(1543年)、三河国の岡崎城(現在の愛知県岡崎市)で生まれました。
3人とも、現在の愛知県の生まれ。織田信長が一番年上ですが、最年少の徳川家康との年齢差は9歳と近い。三英傑はほぼ同世代と考えてよさそうです。
上司は?誰の家臣だった?
織田氏がどのようにして誕生したか、そのルーツについては、平氏の流れをくんでいるとか、藤原氏であるとか、いくつか説がある謎の多い一族です。
信長の父・信秀は、尾張国を治めていた守護代・斯波(しば)氏の家臣を務めていました。織田家は尾張国の中にいくつかの分家・親戚筋が点在しており、信長の実家はそれほど身分が高くはなかったと伝わっています。
豊臣秀吉はご承知の通り、家柄も財産もない、貧しい家の生まれ。若いころに家を出て、行商などをしながらの放浪生活。1554年頃から、織田信長の付き人のような仕事をしながら、出世の道を模索していました。
徳川家康は三河国の小豪族・松平氏の家柄。幼い頃から駿府国の今川氏に人質として送られ、元服して今川義元の家臣として戦場に出ていました。
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天下統一した?それは何歳頃?
尾張、三河、駿府、甲斐、美濃、越後、相模……。現代でいうところの「都道府県」のような分け方ではありますが、当時の日本では、これらひとつひとつのことを「国」と考えていました。
隣接する国と国とで、争いごとが絶えない時代。みんなが「国」というくくりに縛られていた時代に、織田信長は「天下」を意識しはじめます。これは当時の人々にとってすぐには理解しがたい、画期的な思想だったのです。
信長は「天下布武(てんかふぶ)」という政治思想を持っていました。これが「天下統一」を意味する言葉なのか、様々な説があります。信長が武力ですべての国を平定しようと考えていたかどうかはわかりません。ただ、何かしらの方法で戦乱の世を終わらせたい、天下に安泰をもたらしたいと考えていはいたようです。
39歳で室町幕府を滅ぼした信長でしたが、領地はそれほど多くはありません。信長は天下統一には至りませんでした。
信長が築いた基礎を引き継いで、天下統一に動き出したのが豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)です。出世街道まっしぐら、53歳のときに小田原城を落とし、天下統一を成し遂げます。
徳川家康が関ヶ原の戦いに参じたときの年齢は58歳で、見事これに勝利。江戸に幕府を開きます。秀吉のときよりさらに高齢になってから天下統一となりました。
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亡くなったのはいつ頃?死因は?
織田信長は天正10年6月2日(1582年6月21日)、京都の本能寺に逗留しているところを家臣の明智光秀に襲われ、命を落とします。世にいう「本能寺の変」です。49歳の生涯でした。
森蘭丸ら家臣たちとともに立ち向かった信長でしたが、光秀軍の兵力に死を悟り、自ら火を放って自害したと伝わっています。しかし、遺骸は見つかっていないのだそうです。
豊臣秀吉は慶長3年8月18日(1598年9月18日)、京都・伏見城で息を引き取ります。62歳でした。
秀吉は数年前からかなり弱っていたようで、死因については癌や疫病、脚気など、様々な説があるようです。
徳川家康は元和2年4月17日(1616年6月1日)、駿府城にて75年の生涯を終えました。
死因については、一説に「天ぷらを食べたことによる食中毒」と言われていましたが、胃癌だった可能性も示唆されています。
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